2,3年前、
久しぶりに大学時代の仲間たちと一夜を共にした。
私と家内以外は、みんな北海道内で教職を終えていた。
その1人が、教職に就いてすぐのころを回顧し、
語ったことがいつまでも心に残っている。
「大学を出て、最初の小学校は、
全校児童が15人位の僻地だったんだ。
校長先生と教頭先生、それに先生が3人だった。
管理職2人と僕は、学校近くの官舎で、
後の2人は、町に住んでいて、
1時間程かけて車で通勤していた。
15人の子どもでも学校にいる時は、まだいいんだ。
少ない子どもだけど、その時間はやはり活気がある。
ところが、その子たちが居なくなると、
学校もその周りも、もう静まりかえちゃって・・。
田園風景なんて言うけど、
見慣れたそれは、何もなく寂しいものさ。
仕事を終えて官舎に戻ると、もうすることがないんだ。
大学を出たばかりだから、
運転免許もまだもってない。当然、車もない。
定期バスは、そんなに遅くまで通ってないから、
近くの町まで出ることも、できないんだ。
校長先生や教頭先生が、時々夕食に呼んでくれるけど、
それだっていつまでも、
お邪魔している訳にもいかないしね。
あそこで暮らしていた時、僕はずっとおかしかった気がする。
いつも、もんもんとしていて・・。
運良く、3年で異動できたから良かったけど、
本当に、辛かった。寂しかった。」
同時期の私はどうだっただろう。
東京の下町の小学校に赴任し、
慣れない都会暮らしに若干戸惑いながらも、
彼のように、もんもんとした日々を送ることはなかった。
300人を越える児童との教職生活は勿論だが、
想像を越えた人や物、文化等との素敵な出逢いがあった。
多くの刺激が私を包んでくれた。
当然、未熟な教育実践に、思い悩むことはしばしばあった。
でも、いつも同世代の先生方と語り合った。
夕食を共にした。
時には、一緒に都心まで買い物や展覧会、映画、演劇に行った。
貴重な時間だった。
さて、そんな私のかけ出し時代のエピソードを2つ記す。
その1つは、着任早々のことである。
当時は、4月1日の辞令伝達などはなく、
5日が初出勤の日と連絡を受けていた。
私の住まいは、3月末に内定の面接に出向いたおり、
学校で探してくれることになっていた。
なので、4日午後に学校を訪ねた。
東京での住まいから、5日朝に初出勤しようと思ったからだ。
教頭先生と日直の先生がいた。
挨拶もそこそこに、私は尋ねた。
「私の住むところは、どこになりましたか。」
教頭先生から、すぐに返事が返ってきた。
「さて、誰が探しているのかな?」
「先日、来た時に、校長先生が探しておきますって、
言ってくださったのですが・・。」
「じゃ、誰か探しているのでしょう・・。
でも、見つかったとは、聞いてないなあ・・。」
「今夜の宿がない!」
私は、声を失った。
どうしていいのか、全く分からなくなった。
この後は、大人と子どもの会話みたいである。
「明日、先生方が来たら、探している先生が分かるでしょう。・・・」
「そうですか。でも、今夜、泊まる所が・・。」
「誰かに、頼んで泊めてもらえないの・・。」
「急に泊めてもらえるところなど、ありません。・・」
「それは、困ったね。もしものことは考えなかったの・・。」
「はい、住まいはてっきり決まっていると思っていましたから・・。」
「そう言っても、私は何も聞いてないしね・・。」
「でも、どうしたら・・。」
「困りましたね。・・」
私は、突然の事態に、ただただぼう然とした。
東京に着いた初日のできごとである。
こんな事態への対応力を、当時の私は持っていなかった。
ガランとした職員室で、教頭先生の机の前に、
私は、しばらく突っ立ていた。
そこへ、その夜、宿直勤務の警備員が出勤してきた。
若干年配の警備員さんは、
私の事情を聞いて、さり気なく言ってくれた。
「じゃ、今夜は保健室のベットで寝ればいい。
教頭さん、いいよね。」
「警備さんが、それでいいなら・・」
警備員さんは、私に顔を向けて微笑んだ。
「大丈夫。安心しな。夕飯は、2食分作るから・・。」
きっと、私はすごく困った顔をしていたのだと思う。
話は、トントンと進み、夕方、陽が落ちた頃、
宿直室の和室で、警備員さんと向かい合い、
夕食を頂くことになった。
「俺は、勤務なので飲めないけど、東京での1日目だろう。
就職祝いだよ。」
警備員さんは、缶ビールを開けて、
私のグラスについでくれた。
東京での初めての優しさに、こみ上げるものがあった。
それを必死でこらえながら、グラスを口へ運んだ。
「ありがとうございます。美味しいです。」
「とんだ初日になったけど、きっといい先生になれるよ。」
思ってもいなかった励ましだった。
「はい、・・頑張ります。」
それ以上、何か言うと泣きそうで、言葉を飲んだ。
その後、まだ早い気がしたけど、
警備員さんに勧められ、保健室のベットに横になった。
夜の学校の一室であるが、
どこからが明かりが届き、薄明るかった。
遠くから車の騒音も、わずかに聞こえていた。
でも、前夜の夜行列車、そして今日の疲れもあって、
いつの間にか寝入っていた。
しかし、この日の出来事は、これで終わらなかった。
真夜中だったと思う。
私は、トイレに行きたくなった。
しばらく我慢をしたが、やはり行った方がいいと決め、
ベットをおり、保健室のドアをあけ、廊下に出た。
すると非常ベルの音が、学校中に鳴り響いた。
「火事!」
私はとっさにそう思い、薄暗い廊下を宿直室へ走った。
途中、慣れない廊下のどこかに、額をぶつけた。
それも構わず、「火事ですか。」
警備員さんを見るなり叫んだ。
「保健室のドアを開けたでしょう。だから、ベルが鳴ったんだよ。」
警備員さんは、静かにそう言いながら、
非常装置のスイッチを動かした。
ベルは、止まった。
「どこに、ぶつかったの。おでこから血が出ているよ。」
私は、頂いたちり紙で額をおさえた。
額がすりむけ、出血していた。
翌朝、額に絆創膏を貼ったまま、
私は、先生方に着任の挨拶をした。
つづく
冬の昭和新山 “今も噴煙が”
久しぶりに大学時代の仲間たちと一夜を共にした。
私と家内以外は、みんな北海道内で教職を終えていた。
その1人が、教職に就いてすぐのころを回顧し、
語ったことがいつまでも心に残っている。
「大学を出て、最初の小学校は、
全校児童が15人位の僻地だったんだ。
校長先生と教頭先生、それに先生が3人だった。
管理職2人と僕は、学校近くの官舎で、
後の2人は、町に住んでいて、
1時間程かけて車で通勤していた。
15人の子どもでも学校にいる時は、まだいいんだ。
少ない子どもだけど、その時間はやはり活気がある。
ところが、その子たちが居なくなると、
学校もその周りも、もう静まりかえちゃって・・。
田園風景なんて言うけど、
見慣れたそれは、何もなく寂しいものさ。
仕事を終えて官舎に戻ると、もうすることがないんだ。
大学を出たばかりだから、
運転免許もまだもってない。当然、車もない。
定期バスは、そんなに遅くまで通ってないから、
近くの町まで出ることも、できないんだ。
校長先生や教頭先生が、時々夕食に呼んでくれるけど、
それだっていつまでも、
お邪魔している訳にもいかないしね。
あそこで暮らしていた時、僕はずっとおかしかった気がする。
いつも、もんもんとしていて・・。
運良く、3年で異動できたから良かったけど、
本当に、辛かった。寂しかった。」
同時期の私はどうだっただろう。
東京の下町の小学校に赴任し、
慣れない都会暮らしに若干戸惑いながらも、
彼のように、もんもんとした日々を送ることはなかった。
300人を越える児童との教職生活は勿論だが、
想像を越えた人や物、文化等との素敵な出逢いがあった。
多くの刺激が私を包んでくれた。
当然、未熟な教育実践に、思い悩むことはしばしばあった。
でも、いつも同世代の先生方と語り合った。
夕食を共にした。
時には、一緒に都心まで買い物や展覧会、映画、演劇に行った。
貴重な時間だった。
さて、そんな私のかけ出し時代のエピソードを2つ記す。
その1つは、着任早々のことである。
当時は、4月1日の辞令伝達などはなく、
5日が初出勤の日と連絡を受けていた。
私の住まいは、3月末に内定の面接に出向いたおり、
学校で探してくれることになっていた。
なので、4日午後に学校を訪ねた。
東京での住まいから、5日朝に初出勤しようと思ったからだ。
教頭先生と日直の先生がいた。
挨拶もそこそこに、私は尋ねた。
「私の住むところは、どこになりましたか。」
教頭先生から、すぐに返事が返ってきた。
「さて、誰が探しているのかな?」
「先日、来た時に、校長先生が探しておきますって、
言ってくださったのですが・・。」
「じゃ、誰か探しているのでしょう・・。
でも、見つかったとは、聞いてないなあ・・。」
「今夜の宿がない!」
私は、声を失った。
どうしていいのか、全く分からなくなった。
この後は、大人と子どもの会話みたいである。
「明日、先生方が来たら、探している先生が分かるでしょう。・・・」
「そうですか。でも、今夜、泊まる所が・・。」
「誰かに、頼んで泊めてもらえないの・・。」
「急に泊めてもらえるところなど、ありません。・・」
「それは、困ったね。もしものことは考えなかったの・・。」
「はい、住まいはてっきり決まっていると思っていましたから・・。」
「そう言っても、私は何も聞いてないしね・・。」
「でも、どうしたら・・。」
「困りましたね。・・」
私は、突然の事態に、ただただぼう然とした。
東京に着いた初日のできごとである。
こんな事態への対応力を、当時の私は持っていなかった。
ガランとした職員室で、教頭先生の机の前に、
私は、しばらく突っ立ていた。
そこへ、その夜、宿直勤務の警備員が出勤してきた。
若干年配の警備員さんは、
私の事情を聞いて、さり気なく言ってくれた。
「じゃ、今夜は保健室のベットで寝ればいい。
教頭さん、いいよね。」
「警備さんが、それでいいなら・・」
警備員さんは、私に顔を向けて微笑んだ。
「大丈夫。安心しな。夕飯は、2食分作るから・・。」
きっと、私はすごく困った顔をしていたのだと思う。
話は、トントンと進み、夕方、陽が落ちた頃、
宿直室の和室で、警備員さんと向かい合い、
夕食を頂くことになった。
「俺は、勤務なので飲めないけど、東京での1日目だろう。
就職祝いだよ。」
警備員さんは、缶ビールを開けて、
私のグラスについでくれた。
東京での初めての優しさに、こみ上げるものがあった。
それを必死でこらえながら、グラスを口へ運んだ。
「ありがとうございます。美味しいです。」
「とんだ初日になったけど、きっといい先生になれるよ。」
思ってもいなかった励ましだった。
「はい、・・頑張ります。」
それ以上、何か言うと泣きそうで、言葉を飲んだ。
その後、まだ早い気がしたけど、
警備員さんに勧められ、保健室のベットに横になった。
夜の学校の一室であるが、
どこからが明かりが届き、薄明るかった。
遠くから車の騒音も、わずかに聞こえていた。
でも、前夜の夜行列車、そして今日の疲れもあって、
いつの間にか寝入っていた。
しかし、この日の出来事は、これで終わらなかった。
真夜中だったと思う。
私は、トイレに行きたくなった。
しばらく我慢をしたが、やはり行った方がいいと決め、
ベットをおり、保健室のドアをあけ、廊下に出た。
すると非常ベルの音が、学校中に鳴り響いた。
「火事!」
私はとっさにそう思い、薄暗い廊下を宿直室へ走った。
途中、慣れない廊下のどこかに、額をぶつけた。
それも構わず、「火事ですか。」
警備員さんを見るなり叫んだ。
「保健室のドアを開けたでしょう。だから、ベルが鳴ったんだよ。」
警備員さんは、静かにそう言いながら、
非常装置のスイッチを動かした。
ベルは、止まった。
「どこに、ぶつかったの。おでこから血が出ているよ。」
私は、頂いたちり紙で額をおさえた。
額がすりむけ、出血していた。
翌朝、額に絆創膏を貼ったまま、
私は、先生方に着任の挨拶をした。
つづく
冬の昭和新山 “今も噴煙が”