最初に、教育エッセイ『優しくなければ』から、
1文を写す。
* * * * *
父との別れ
4月1日、塚原久吉、満70歳の日。
父は、白い手術着をきて、移動ベットの人となりました。
手術室に入る父を1人見送りました。
兄姉は、手術時間の変更で、間に合いませんでした。
「渉、いま何時だ。」
ベットを止め、父は尋ねました。
私は、1時半であることを教えました。
「そうか、4時まではかかるな。」
そう言い残し、手術室のドアが閉じようとしました。
「父さん………、父さん、頑張れよ。」
祈る思いでした。声はうわずっていました。
手術室の中に消えた父が
「おうっ!」
と、言ってくれたような気がしました。
長い時間でした。
しかし、4時より1時間も早くに、
『手術中』のランプは消えました。
胸の鼓動は、久しぶりのネクタイまで揺らしていました。
「親族の方ですね。オペについてお話します。」
私より、2、3歳年上の青年医師でした。
4月4日、私は空路羽田へ。
空から、夕焼けを見ました。
涙が次から次から流れ落ちました。
4月5日、狭い校庭に朝の光が、
直線的に差し込んでいました。
その時、転任先の小学校に、最初の一歩を踏みました。
「何年間、ここで生活するのだろう。」
ふと足を止めた記憶があります。
その日から、電話のベルに怯えました。
12月9日未明、苦痛のうめきと荒々しい息と
幻覚症状の続いていた父が、
「俺の生命力も、そろそろ終わりのようだ。」
とだけ言いました。
ハッキリとした口調だったそうです。
屈託のない表情だったそうです。
3時間後、荒々しい息は去り、他界しました。
同日午前5時30分、私の電話が高く鳴りました。
兄の声でした。
「そうか。」と、だけ言って受話器を置きました。
兄弟の中で1人、死に水を取れませんでした。
翌日、棺に純白の菊の花を、誰よりも多く添えました。
「さようなら………父さん。」
くり返し、くり返し、そう父に語りかけました。
父は安らかに目をとじていました。
「パパ、じいじ、喜んでいるよ。」
私の腕の中にいた3歳の息子が言いました。
「そうだね。そうだね。」
と私は、ボロボロ泣きました。
* * * * *
昭和52年のことである。
この年は、様々な事があった。
人生に節目があるのなら、その1つと言えるだろう。
まずは、父の闘病と死であった。
前年末から、体調を崩し入院生活をしていたが、
思い切って手術をしてみてはと勧められた。
「難しい手術になる」からと、
室蘭から札幌の病院へ移った。
私は、東京の小学校に勤務していたが、
手術の日は春休みであったので、空路、病院へ行った。
術後、医師から、胃癌とだ言われた。
父にも母にも、ふせておこうと決めたが、
末期の病状で、余命3ヶ月とのことだった。
当然だが、兄弟はみんな、一様に肩を落とした。
なかでも、父と一緒に魚屋をしている兄の落胆ぶりはすごく、
さすがの私も、かける言葉をなくしてしまった。
同じ年4月、私は教員として初めての異動があった。
同じ区内の小学校だったが、職員の雰囲気が全く違った。
初出勤の日から、セクトに別れての言い争いがあった。
暗い気持ちになった。
「自分の立ち位置をしっかり定めなければ・・」。
ここでは『仲間不在』。それを直感し、覚悟を決めた。
学校でも、重たい気持ちの不安な1年間になった。
その後の父であるが、一時期持ち直した。
5月の連休明けには退院することができた。
自宅療養となった。
6月に入ると、調子のいい日は店に立ち、
刺身などの調理までした。
蛇足だが、父の造った刺身は、売れ行きがよかった。
「今日の刺身は、誰が切ったの」
常連さんが、よく尋ねた。
「今日は、親父が造った。」
すると、お客さんの手が、すっと刺身に伸びた。
「俺だって、同じように切っているよ・・」。
常連さんに、何度言っても、
最後まで父にはかなわなかったと兄は言っていた。
7月に入り、余命3ヶ月が過ぎたある日、
元気な声で、父から電話がきた。
実は、家内は9月に第2子の出産を控えていた。
父は、その事を気にかけてくれていた。
私が受話器を取ると、すかさず言った。
「我が家で赤ちゃんを産めばいい。
みんなで世話するから、今月中には、連れておいで。
なあ、そうしな。」
父の病状はいつ急変するか分からない。
返事にためらい、「相談して返事するね」と応じた。
「うちの嫁なんだから、遠慮はいらないからね」。
珍しく父は、強く言い切り、電話を切った。
数日後、父の機嫌を損ねないよう、電話した。
「もうずっと前から、実家に頼んであるから・・、
今さら変更は無理なんだ。」
そんな言い訳にもならない、断り方をした。
「なら、しょうがないか・・・。」
父の寂しげな声が耳に残った。
それから2週間後、父は再び入院することになった。
病状は、1日1日わずかずつ悪化していった。
9月末、第2子が産まれた。
その子と父が、対面する機会がないまま、
12月9日がきた。
私にとって学期末の忙しい時期の葬儀だった。
悲しさを横に置き、学期末の評価と通知表に取り組んだ。
そして、冬休みになりすぐ、こんな詩を添えた喪中ハガキを
お世話になっている方々に、投函した。
言葉も忘れ
12月9日未明
予期した電話のベル
2ヶ月の乳児を抱えて
降りたった北国
先日 見舞った時は
まだ
わずかに紅葉は残ってたのに
木々は 寒々と枯れていた
白い布におおわれた父
一昼夜後には
その姿さえ消えた
好きだった 大好きだった父の死
悔やみの言葉に
ただ両手をつく僕
言葉を忘れた合掌は
新春をむかえる事さえ
忘れそう
父の胃癌宣告から死、私の初めての異動、そして第2子の誕生と
大きな出来事があった1年だった。
なかでも享年70歳の父との別れは、
初めての肉親との死別だったこともあって、大きな失意だった。
さて、
ついに私は、その父と同じ年令になった。
兄弟からは、容姿も性格も一番父に似ていると言われる。
それだけでなく、「父の一番の理解者は私だ」と、
自負もしている。
苦労人だった父を、学識だけでなく人としても、
目標にしてきた。
その父に、やっと年令だけは肩を並べることができた。
他に追いつき追い越せるものは、今、何一つとしてない。
でも、なぜか晴れがましい。
ここからは、父には体験のないステージである。
まだまだと思いつつも、父の知らないステップに、
踏み出すのだ。
『自信がなくて うぬぼればかり
ああはずかしい はずかしい』
書家・相田みつおさんの言葉だが、
この頃よく思い浮び、心に留まる。
名指しされているようで、直視できない。
だが、戒めと捉え、父越えに向かおう。
そんな意を強くしているのだが・・・・・。
キクザキイチゲ・花言葉『静かな瞳』
1文を写す。
* * * * *
父との別れ
4月1日、塚原久吉、満70歳の日。
父は、白い手術着をきて、移動ベットの人となりました。
手術室に入る父を1人見送りました。
兄姉は、手術時間の変更で、間に合いませんでした。
「渉、いま何時だ。」
ベットを止め、父は尋ねました。
私は、1時半であることを教えました。
「そうか、4時まではかかるな。」
そう言い残し、手術室のドアが閉じようとしました。
「父さん………、父さん、頑張れよ。」
祈る思いでした。声はうわずっていました。
手術室の中に消えた父が
「おうっ!」
と、言ってくれたような気がしました。
長い時間でした。
しかし、4時より1時間も早くに、
『手術中』のランプは消えました。
胸の鼓動は、久しぶりのネクタイまで揺らしていました。
「親族の方ですね。オペについてお話します。」
私より、2、3歳年上の青年医師でした。
4月4日、私は空路羽田へ。
空から、夕焼けを見ました。
涙が次から次から流れ落ちました。
4月5日、狭い校庭に朝の光が、
直線的に差し込んでいました。
その時、転任先の小学校に、最初の一歩を踏みました。
「何年間、ここで生活するのだろう。」
ふと足を止めた記憶があります。
その日から、電話のベルに怯えました。
12月9日未明、苦痛のうめきと荒々しい息と
幻覚症状の続いていた父が、
「俺の生命力も、そろそろ終わりのようだ。」
とだけ言いました。
ハッキリとした口調だったそうです。
屈託のない表情だったそうです。
3時間後、荒々しい息は去り、他界しました。
同日午前5時30分、私の電話が高く鳴りました。
兄の声でした。
「そうか。」と、だけ言って受話器を置きました。
兄弟の中で1人、死に水を取れませんでした。
翌日、棺に純白の菊の花を、誰よりも多く添えました。
「さようなら………父さん。」
くり返し、くり返し、そう父に語りかけました。
父は安らかに目をとじていました。
「パパ、じいじ、喜んでいるよ。」
私の腕の中にいた3歳の息子が言いました。
「そうだね。そうだね。」
と私は、ボロボロ泣きました。
* * * * *
昭和52年のことである。
この年は、様々な事があった。
人生に節目があるのなら、その1つと言えるだろう。
まずは、父の闘病と死であった。
前年末から、体調を崩し入院生活をしていたが、
思い切って手術をしてみてはと勧められた。
「難しい手術になる」からと、
室蘭から札幌の病院へ移った。
私は、東京の小学校に勤務していたが、
手術の日は春休みであったので、空路、病院へ行った。
術後、医師から、胃癌とだ言われた。
父にも母にも、ふせておこうと決めたが、
末期の病状で、余命3ヶ月とのことだった。
当然だが、兄弟はみんな、一様に肩を落とした。
なかでも、父と一緒に魚屋をしている兄の落胆ぶりはすごく、
さすがの私も、かける言葉をなくしてしまった。
同じ年4月、私は教員として初めての異動があった。
同じ区内の小学校だったが、職員の雰囲気が全く違った。
初出勤の日から、セクトに別れての言い争いがあった。
暗い気持ちになった。
「自分の立ち位置をしっかり定めなければ・・」。
ここでは『仲間不在』。それを直感し、覚悟を決めた。
学校でも、重たい気持ちの不安な1年間になった。
その後の父であるが、一時期持ち直した。
5月の連休明けには退院することができた。
自宅療養となった。
6月に入ると、調子のいい日は店に立ち、
刺身などの調理までした。
蛇足だが、父の造った刺身は、売れ行きがよかった。
「今日の刺身は、誰が切ったの」
常連さんが、よく尋ねた。
「今日は、親父が造った。」
すると、お客さんの手が、すっと刺身に伸びた。
「俺だって、同じように切っているよ・・」。
常連さんに、何度言っても、
最後まで父にはかなわなかったと兄は言っていた。
7月に入り、余命3ヶ月が過ぎたある日、
元気な声で、父から電話がきた。
実は、家内は9月に第2子の出産を控えていた。
父は、その事を気にかけてくれていた。
私が受話器を取ると、すかさず言った。
「我が家で赤ちゃんを産めばいい。
みんなで世話するから、今月中には、連れておいで。
なあ、そうしな。」
父の病状はいつ急変するか分からない。
返事にためらい、「相談して返事するね」と応じた。
「うちの嫁なんだから、遠慮はいらないからね」。
珍しく父は、強く言い切り、電話を切った。
数日後、父の機嫌を損ねないよう、電話した。
「もうずっと前から、実家に頼んであるから・・、
今さら変更は無理なんだ。」
そんな言い訳にもならない、断り方をした。
「なら、しょうがないか・・・。」
父の寂しげな声が耳に残った。
それから2週間後、父は再び入院することになった。
病状は、1日1日わずかずつ悪化していった。
9月末、第2子が産まれた。
その子と父が、対面する機会がないまま、
12月9日がきた。
私にとって学期末の忙しい時期の葬儀だった。
悲しさを横に置き、学期末の評価と通知表に取り組んだ。
そして、冬休みになりすぐ、こんな詩を添えた喪中ハガキを
お世話になっている方々に、投函した。
言葉も忘れ
12月9日未明
予期した電話のベル
2ヶ月の乳児を抱えて
降りたった北国
先日 見舞った時は
まだ
わずかに紅葉は残ってたのに
木々は 寒々と枯れていた
白い布におおわれた父
一昼夜後には
その姿さえ消えた
好きだった 大好きだった父の死
悔やみの言葉に
ただ両手をつく僕
言葉を忘れた合掌は
新春をむかえる事さえ
忘れそう
父の胃癌宣告から死、私の初めての異動、そして第2子の誕生と
大きな出来事があった1年だった。
なかでも享年70歳の父との別れは、
初めての肉親との死別だったこともあって、大きな失意だった。
さて、
ついに私は、その父と同じ年令になった。
兄弟からは、容姿も性格も一番父に似ていると言われる。
それだけでなく、「父の一番の理解者は私だ」と、
自負もしている。
苦労人だった父を、学識だけでなく人としても、
目標にしてきた。
その父に、やっと年令だけは肩を並べることができた。
他に追いつき追い越せるものは、今、何一つとしてない。
でも、なぜか晴れがましい。
ここからは、父には体験のないステージである。
まだまだと思いつつも、父の知らないステップに、
踏み出すのだ。
『自信がなくて うぬぼればかり
ああはずかしい はずかしい』
書家・相田みつおさんの言葉だが、
この頃よく思い浮び、心に留まる。
名指しされているようで、直視できない。
だが、戒めと捉え、父越えに向かおう。
そんな意を強くしているのだが・・・・・。
キクザキイチゲ・花言葉『静かな瞳』