今日は所用で子飼へ出かけたが、帰りは車が混まない立田山の方へ回って帰ることにした。立田自然公園(泰勝寺跡)の前まで来るとやっぱり素通りは出来ず四つ御廟をお詣りして帰ることにした。
いつものようにまず肥後細川家初代藤孝公と夫人の御廟をお詣りした後、忠興公と玉(ガラシャ)夫人の御廟をお詣りするのだが、ここまで来るといつも思い出すのが、忠興公が朝鮮出兵にあたって夫人に送った歌とガラシャ夫人の返歌のことである。
忠興公の歌は
「なびくなよ わがませがきのおみなえし あらぬかたよりかぜはふくとも」
これに対するガラシャ夫人の返歌が
「なびくまじ わがませがきのおみなえし あらぬかたよりかぜはふくとも」
これは、忠興公が美貌のガラシャ夫人を籬で囲った女郎花にたとえ、自分の留守中にあらぬかた(太閤の暗喩)からの誘いがあってもけっして乗ってはいけないという戒めと、それに対して絶対にそんなことはしないというガラシャ夫人の決意を歌で交わしたもの。
ガラシャ夫人は15歳で忠興公(同年齢)に嫁ぎ、37歳で亡くなるまでの22年の間には、父明智光秀が起こした本能寺の変で一時、離縁した時期もあったりして山あり谷ありの夫婦生活だったが、最後まで貞節を守り抜いた。

ガラシャ夫人の御廟とその右奥に忠興公の御廟
今日もう一つ気になったのが池が干上がっていたこと。昨年3月頃もあったのだが、この池は雨水池なので雨量が少ないと当然水位が落ちる。しかし、昨年まで干上がった池を見ることはなかった。環境変化が心配だ。
干上がった池を眺めながらつい檜垣媼の歌が頭に浮かんだ。
「白川の底の水ひて塵立たむ 時にぞ君を思ひ忘れむ」
肥後国司を務めた清原元輔が任期を終えて帰京する時、檜垣が惜別の歌として詠んだとされる歌で「白川の水が涸れてしまっても、けっしてあなたを忘れることはありません」という檜垣の深い愛が込められている。
泰勝寺の池はこのまま干上がってしまうとは思えないが、水位回復の雨が待たれる。

底の水ひて佇むサギ
いつものようにまず肥後細川家初代藤孝公と夫人の御廟をお詣りした後、忠興公と玉(ガラシャ)夫人の御廟をお詣りするのだが、ここまで来るといつも思い出すのが、忠興公が朝鮮出兵にあたって夫人に送った歌とガラシャ夫人の返歌のことである。
忠興公の歌は
「なびくなよ わがませがきのおみなえし あらぬかたよりかぜはふくとも」
これに対するガラシャ夫人の返歌が
「なびくまじ わがませがきのおみなえし あらぬかたよりかぜはふくとも」
これは、忠興公が美貌のガラシャ夫人を籬で囲った女郎花にたとえ、自分の留守中にあらぬかた(太閤の暗喩)からの誘いがあってもけっして乗ってはいけないという戒めと、それに対して絶対にそんなことはしないというガラシャ夫人の決意を歌で交わしたもの。
ガラシャ夫人は15歳で忠興公(同年齢)に嫁ぎ、37歳で亡くなるまでの22年の間には、父明智光秀が起こした本能寺の変で一時、離縁した時期もあったりして山あり谷ありの夫婦生活だったが、最後まで貞節を守り抜いた。

ガラシャ夫人の御廟とその右奥に忠興公の御廟
創作舞踊「細川ガラシャ」
今日もう一つ気になったのが池が干上がっていたこと。昨年3月頃もあったのだが、この池は雨水池なので雨量が少ないと当然水位が落ちる。しかし、昨年まで干上がった池を見ることはなかった。環境変化が心配だ。
干上がった池を眺めながらつい檜垣媼の歌が頭に浮かんだ。
「白川の底の水ひて塵立たむ 時にぞ君を思ひ忘れむ」
肥後国司を務めた清原元輔が任期を終えて帰京する時、檜垣が惜別の歌として詠んだとされる歌で「白川の水が涸れてしまっても、けっしてあなたを忘れることはありません」という檜垣の深い愛が込められている。
泰勝寺の池はこのまま干上がってしまうとは思えないが、水位回復の雨が待たれる。

底の水ひて佇むサギ
檜垣媼の歌を織り込んだ「檜垣水汲みをどり」