昭和48年11月29日に多数の犠牲者を出した「大洋デパート火災」から今日でちょうど50年。
先ずは亡くなられた104名の御霊に謹んで哀悼の意を表します。
あの日、火災の第一報を聞いたのは当時勤務していた玉名から出張で久留米へ向かう車のラジオでした。出張先でもずっと気になっていて仕事を終えて帰りの車の中でも続報を聴きながら帰ったことを憶えています。以来、「大洋デパート火災」のことは喉に刺さったトゲのような思い出となり一生忘れる事はないと思います。
社会に出て間もなかった頃、仕事の後の時間を過ごすのは大洋デパートの周辺と決まっていました。会社の同僚と飲みに行ったり、友人と食事に行ったり、喫茶店に行ったりとすべてあの周辺で間に合いました。しかし、そんな店々も昭和51年に大洋デパートが倒産・廃業してから間もなく消えて行きました。今、当時利用していた店は一軒も残っていません。遠い日の青春の思い出となってしまいました。
城見町通り。前方左の高いビルが大洋デパート。昭和30年代。(写真提供:森浩氏)
下通商店街入口のアーチ看板に大洋デパートの名が。(写真提供:森浩氏)
先ずは亡くなられた104名の御霊に謹んで哀悼の意を表します。
あの日、火災の第一報を聞いたのは当時勤務していた玉名から出張で久留米へ向かう車のラジオでした。出張先でもずっと気になっていて仕事を終えて帰りの車の中でも続報を聴きながら帰ったことを憶えています。以来、「大洋デパート火災」のことは喉に刺さったトゲのような思い出となり一生忘れる事はないと思います。
社会に出て間もなかった頃、仕事の後の時間を過ごすのは大洋デパートの周辺と決まっていました。会社の同僚と飲みに行ったり、友人と食事に行ったり、喫茶店に行ったりとすべてあの周辺で間に合いました。しかし、そんな店々も昭和51年に大洋デパートが倒産・廃業してから間もなく消えて行きました。今、当時利用していた店は一軒も残っていません。遠い日の青春の思い出となってしまいました。
城見町通り。前方左の高いビルが大洋デパート。昭和30年代。(写真提供:森浩氏)
下通商店街入口のアーチ看板に大洋デパートの名が。(写真提供:森浩氏)