徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

今日は75年目の「太平洋戦争開戦の日」

2016-12-08 09:08:44 | 歴史
 その日は意外と早く目が覚めた。それと言うのも、この日は朝八時から防空監視哨当番の日であった。いつになく早起きしたし、間もなく六時というので、珍しくラジオのスイッチを入れた。すると間髪を入れず「臨時ニュースを申し上げます、臨時ニュースを申し上げます」というアナウンサーの声。何事ならんと耳を傾けると、「大本営陸軍部発表、帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」というニュースであった。そしてその後は軍艦マーチが鳴り止まず・・・。これこそ正に青天の霹靂であった。ラジオの前にしばし呆然としていた私はハッと我にかえり、奇しくもこの開戦に当り、熊本市防空監視哨の一番立ちの任務につくことに異常な興奮と身の引締まる思いで一ぱいだった。朝食もそこそこに教練服に身を固め、監視所に急いだが、私が現地に着くと班員は既に集合を終えていた。正八時、いよいよ上番との交代である。この頃になると在熊の防空部隊が手に肩に高射機関銃や実弾の一ぱい入った弾薬箱を携え、続々と監視所のある屋上に詰めかけ、たちまち辺り一帯は緊迫した雰囲気に包まれた。防空監視哨というのは、昭和12年に防空法が公布され、各都市において空襲に備えて置かれた監視哨である。大方の町や村では青年学校の生徒をその要員としていた。熊本市には当時十数校の青年学校があったが、島崎校区には第七青年学校があり、陸軍歩兵伍長の資格を持つ私は島崎校の教練指導員も兼務していたので、島崎校が当番の日には班長として指揮をとったのである。監視所は紺屋町の元九電熊本支店の屋上にあった。任務は望楼に立つ見張員が敵の機影あるいは爆音を耳にした場合は、直ちにこれを班長に報告。班長はこれを確認し間違いなしと見れば電話で市の防空監視哨長に報告するのである。この報告が場合によっては警戒警報あるいは空襲警報、避難命令となって市民に伝えられるのである。監視哨はいわば市民の尊い生命財産を守る尖兵というわけだ。防空監視哨の創設以来、わが国が最初の空襲を受けたのは昭和13年5月、中国軍機が熊本県の球磨芦北地方に反戦ビラをまいたのが嚆矢である。これ以来太平洋戦争開戦まで空襲はなかった。こうして開戦第一日の任務についたのであるが敵機の来襲もなく、緊張とは裏腹に平穏な一日が過ぎ、気合抜けの感があった。
※2000年に他界した父の備忘録に書かれている開戦当日の様子です。

戦時中、父が勤務した三菱熊本航空機製作所で製造された爆撃機「飛龍」


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4 コメント

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こんにちは (小父さん)
2016-12-08 12:56:45
何か重苦しい感じで拝読させていただきました。

オバマさんの広島訪問、安倍氏の真珠湾慰霊などなど何か矛盾に満ちた世の中に生きて心の整理がつきません。

父は陸士出ですし、長兄は熊本の陸軍幼年学校に行ってましたし、たくさんの戦死者を出したニューギニアから父が還り私が生まれたわけですから、戦争のことを知れば知るほど自分の中の複雑さが増していきます。

でも、そのような歴史は直視して行かなければならないんでしょうね!
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貴重なお話 (YOKO)
2016-12-08 13:00:23
ありがとうございます。
75年前のことがニュースの中の話でなく、実際に地続きの話として感じることができました。
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Re: 小父さん様 (FUSA)
2016-12-08 13:34:33
この日が来るたび、父の文章を読みますが、これが日本国民が悲惨な目に遭うことになる初めの日だったのかと陰鬱な気分になります。
今の日本のリーダーたちは本当の痛みがわかっていない人ばかりですから、結局、泣きを見るのは国民だったということにならないよう祈るばかりです。
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Re: YOKOさま (FUSA)
2016-12-08 13:38:59
おっしゃるように、今の時代から逆再生するように巻き戻していくと、あっという間にこの暗い時代に戻ってしまう気がします。怖いですね。
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