徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

着物の日

2023-11-13 22:09:53 | 日本文化
 明後日11月15日は「着物の日」。
 着物が今日のような姿になるまで、3回の大変革があったという。

 最初の変革は、平安時代後期から、広袖の下に着る下着だった小袖を表着に変えた時。それは戦国時代のファッションリーダー、織田信長によるといわれる。その小袖に何色もの糸を織り込んだりして華美なものに変えて行った。

 第二の変革は、江戸時代中期、第5代将軍徳川綱吉の時代、町人生活の奢侈を取り締まるため、金糸や鹿の子絞りなどが御法度となった時。そこで登場したのが友禅染。扇絵師の宮崎友禅は、着物を、より繊細で色鮮やかに大変身させた。

 そして第三の変革は、19世紀半ば、イギリスで化学染料が発明された時。明治初期、友禅染の名人・広瀬治助が、この化学染料を使い、試行錯誤を繰り返しながら、ついに新たな友禅染を生み出した。以来、安価な着物が作られるようになった。
「歴史秘話ヒストリア ~きもの 千年のトキメキ~(NHK)」より


代継宮の「曲水の宴」で女性歌人に扮したRKK後生川凜アナの十二単姿(2023.5.4)


「2019全日本きもの着付選手権熊本大会」における十二単の着付

ハーンが見た盆踊り

2023-11-12 21:57:57 | 伝統芸能
 6月3日のブログに「揃うた 揃うたよ 踊り子が揃うた」という題名で、ラフカディオ・ハーンが、五高教師時代に書いた「知られぬ日本の面影」の中に、ハーンが初めて松江へ向かう途中、伯耆上市で見た盆踊りの風景のことを書いた。ハーンはその盆踊りで唄われる歌詞も紹介している。
(原文)
  Sorota swoimashita odorikoga sorota,
  Soroikite, Kita hare yukata.
(和訳)
  揃ふた、揃ひました、踊り子が揃ふた、
  揃ひ着て来た、晴れ浴衣。

 歌詞は明らかに「潮来音頭」や「潮来甚句」などで唄われる
 「揃うた揃うたよ 踊り子が揃うた 秋の出穂より よく揃うた ションガイー」
との関連性がうかがえるが、この唄が何という曲名なのかわからないのでそのうち調べてみようと思っていた。
 以来そのことをすっかり忘れていたのだが、先日、別件で中国地方の民謡を調べていたら、「いさい踊り(ハーン踊り)」という曲目が目についた。ひょっとしてこれのことかなと思い、鳥取県の芸能について調べてみるとたしかにこれがハーンが見た盆踊りだった。地元ではハーンの「知られぬ日本の面影」にこの踊りのことが書かれていることを記念して「ハーン踊り」というサブタイトルをつけたらしい。
 鳥取県の伝統芸能イベントの映像がYouTubeにアップされていたのでさっそく視聴してみた。たしかに「揃うた、揃いました、踊り子が揃うた」という唄ばやしが唄われている。この唄ばやしは福島県の「相馬盆唄」などでも唄われているので、「潮来音頭」が発祥かどうかはともかく、「伊勢音頭」の「めでためでたの若松様よ」などと同様、日本各地に伝播したものとみられる。

鳥取県大山町「中山いさい踊り」

泰勝寺跡にて

2023-11-11 19:20:18 | 世相
 今日は所用で子飼へ出かけたが、帰りは車が混まない立田山の方へ回って帰ることにした。立田自然公園(泰勝寺跡)の前まで来るとやっぱり素通りは出来ず四つ御廟をお詣りして帰ることにした。
 いつものようにまず肥後細川家初代藤孝公と夫人の御廟をお詣りした後、忠興公と玉(ガラシャ)夫人の御廟をお詣りするのだが、ここまで来るといつも思い出すのが、忠興公が朝鮮出兵にあたって夫人に送った歌とガラシャ夫人の返歌のことである。
 忠興公の歌は
  「なびくなよ わがませがきのおみなえし あらぬかたよりかぜはふくとも」
 これに対するガラシャ夫人の返歌が
  「なびくまじ わがませがきのおみなえし あらぬかたよりかぜはふくとも」
 これは、忠興公が美貌のガラシャ夫人を籬で囲った女郎花にたとえ、自分の留守中にあらぬかた(太閤の暗喩)からの誘いがあってもけっして乗ってはいけないという戒めと、それに対して絶対にそんなことはしないというガラシャ夫人の決意を歌で交わしたもの。
 ガラシャ夫人は15歳で忠興公(同年齢)に嫁ぎ、37歳で亡くなるまでの22年の間には、父明智光秀が起こした本能寺の変で一時、離縁した時期もあったりして山あり谷ありの夫婦生活だったが、最後まで貞節を守り抜いた。


ガラシャ夫人の御廟とその右奥に忠興公の御廟

創作舞踊「細川ガラシャ」


 今日もう一つ気になったのが池が干上がっていたこと。昨年3月頃もあったのだが、この池は雨水池なので雨量が少ないと当然水位が落ちる。しかし、昨年まで干上がった池を見ることはなかった。環境変化が心配だ。
 干上がった池を眺めながらつい檜垣媼の歌が頭に浮かんだ。
  「白川の底の水ひて塵立たむ 時にぞ君を思ひ忘れむ」
 肥後国司を務めた清原元輔が任期を終えて帰京する時、檜垣が惜別の歌として詠んだとされる歌で「白川の水が涸れてしまっても、けっしてあなたを忘れることはありません」という檜垣の深い愛が込められている。
 泰勝寺の池はこのまま干上がってしまうとは思えないが、水位回復の雨が待たれる。


底の水ひて佇むサギ

檜垣媼の歌を織り込んだ「檜垣水汲みをどり」

熊本と福井の関係

2023-11-10 18:55:25 | 歴史
 このところNHK「ブラタモリ」は福井づいている。すなわち
  • セレクション 「福井 〜福井のルーツは“消えた都市”にあり!?〜」(11/2)
  • 「敦賀〜すべての道は敦賀に通ず?〜」(11/4)
  • 「鯖街道・京都へ〜鯖街道は何を運んだ?〜」(11/11)
 福井市は熊本市の国内唯一の姉妹都市である。姉妹都市となったのは、経済や産業面での共通点もさることながら、1840年に肥後熊本藩10代藩主・細川斉護公の三女である勇(いさ)姫が、越前福井藩主・松平春嶽公へ輿入れし、姻戚関係になったことや、熊本藩士で儒学者の横井小楠が福井藩に招聘されて藩政改革にあたるなど深い歴史的関係があったことが大きな要因になったようだ。
 2014年10月には熊本城二の丸広場で開催された「秋のくまもとお城まつり」で「熊本市・福井市姉妹都市締結20周年記念イベント」が行われた。
 そんなわけで福井には個人的にも親近感があり、彦根在勤時には小浜・若狭・美浜・敦賀あたりを旅したり、仕事では若狭から京都に至る「鯖街道」も通った。熊本の鶴屋百貨店で過去何度か行なわれた「福井県の物産と観光展」では絶品の鯖の一夜干しを購入したこともある。
 そして何よりも好ましい印象となっているのが、わが母校済々黌水球部がこれまで二度、福井市の大会で全国制覇をしていることである。


2014年10月10日 熊本市・福井市姉妹都市締結20周年記念イベント


高橋公園(熊本市千葉城町)の維新群像。左から坂本龍馬、勝海舟、横井小楠、松平春嶽、細川護久


勇姫と奥女中たち

YouTubeの話題二つ

2023-11-09 19:50:39 | Web
 いつから始まったのか、YouTubeマイチャンネルのホーム中段に「おすすめ」というエリアができていて、投稿動画のうち24本が紹介されている。ここにリストアップする基準があるらしく順番は常に変動している。必ずしも僕が今「おすすめ」したい動画とは一致しないがしばらく様子を見てみよう。

【マイチャンネルのホーム画面】


 NHK熊本ローカルの平日夕方ニュース情報番組「クマロク!」では今週火曜日から3日続けて、秋深まる五木村を現地で取材した。最終日の今日は「五木の子守唄保存会」の淀川つるよさんが唄う正調「五木の子守唄」が披露された。戦後、レコード発売された「五木の子守唄」とは趣を異にする伝承唄が心に沁みた。
 この正調「五木の子守唄」は下の動画の中でも藤本喜代則さんによって唄われています。

2011.4.30 熊本城本丸御殿 春の宴
立方:こわらべ(みわ・めぐみ・ゆうあ・かな)
地方:藤本喜代則と喜代則社中、中村花誠社中

谷汲観音と夢野久作

2023-11-08 22:53:49 | 日本文化
 昨日のブログ記事「谷汲観音様のはなし。」にT様から興味深いコメントをいただいた。
 コメントの中に「夢野久作の『押絵の奇蹟』を思い出しながら生身の人間よりもなまめかしいだろう生人形「谷汲観音」を想像しました。」という一節があった。
 これを読んだ瞬間「ん?」と理解できなかった。夢野久作というのは大正・昭和期の作家で、名前は、祖母がよく「夢野久作のごたる話」という表現を使っていたので子供の頃から知っていた。非現実的な話というニュアンスで祖母は使っていたと思う。彼の作品を手に取ったこともあったが、その怪奇性みたいなものが肌に合わなかった。
 コメントに書かれた「押絵の奇蹟」というタイトルは記憶にあったが、おそらく読んでいないと思う。そこで青空文庫で斜め読みしてみた。
 演奏中、喀血して倒れた美貌のピアニストが、自身の命が長くないことを悟り、同じ歳で当代人気の歌舞伎役者・中村半次郎に当てて身の上を綴った長い手紙を書くというストーリー。自身の出生の秘密とともに鍵になっているのが歌舞伎「壇浦兜軍記」の「阿古屋の琴責」の段を描いた押絵である。
 実は夢野久作は喜多流の能楽師でもあった。この「押絵の奇蹟」を読んでいくとどこまでが現実でどこから先が妄想なのかよくわからない。これは夢野久作が馴染んだ「夢幻能」とつながるものがあるのかもしれない。
 コメントをいただいたT様は「谷汲観音」に幽玄やミステリアスを感じ取られ、夢野久作の「押絵の奇蹟」を連想されたのかもしれない。


歌舞伎「壇浦兜軍記~阿古屋の琴責の段~」

谷汲観音様のはなし。

2023-11-07 20:19:16 | 熊本
 浄国寺(熊本市北区高平2丁目)の寺宝「谷汲観音」様をしばらく拝観していない。近々お伺いするつもりだが、これまで「谷汲観音」様については何度もブログネタにさせてもらった。その中から主なものをピックアップしてこれまでの経緯を整理してみた。

2010年10月21日
 NHK-BS2にチャンネルを回したら、「男前列伝」という番組の再放送をやっていた。俳優の山本耕史が熊本を訪れて、江戸末期から明治初期にかけて活躍した熊本出身の活人形師・松本喜三郎の作品についてリポートしていた。山本耕史が特に心を動かされたという「谷汲観音像(たにくみかんのんぞう)」。たしかにテレビ画面を通じても不思議なオーラを放っている。いったいこの観音像はどこにあるのかと見ていると、なんと僕が週2、3回はその前を通っている浄国寺というお寺だった。現存する彼の作品は数少ないそうだが、中でもこの観音像は特に貴重なものらしい。一般公開もしているらしいので、これは一度拝んでおかなければ。明日にでもさっそく行ってみよう。

2010年10月23日
 買物のついでに浄国寺に立ち寄り、谷汲観音様とついに対面。ご住職の案内で観音様の前におずおずと進み、両手を合わせて見上げると、ちょうど視線が合う角度になっている。その存在感に圧倒的されそうだ。なんだか観音様はすべてお見通しのような気がして、思わず目をそらしそうになる。
 作者の松本喜三郎は文政8年(1825)の生まれというから、勝海舟や坂本龍馬などと同じ時代に生きた人だ。若い頃から造り物に天賦の才を発揮し、郷里の熊本から大阪に出て、活人形(いきにんぎょう)師として成功を収めたそうだが、この谷汲観音像は、明治4年、浅草において行った「西国三十三ヶ所観音霊験記」という活人形興業で大喝采を博した三十三体の観音像のうちの一つだそうである。喜三郎にとってこの谷汲観音は会心の作だったそうで、晩年、郷里の熊本に戻った際、松本家の菩提寺であった、この浄国寺に寄進したものだそうだ。
 いや、とにかく眺めていると離れがたくなるような不思議なひと時だった。

2011年2月23日
 熊本県伝統工芸館の地下和室で「博多織屋次平展」をやっていた。2年ほど前、NHK福岡局の「博多 はたおと」という星野真里が出演したドラマが印象に残っていたので覗いてみた。展示場にいた四代目次平さんはなんと、あの谷汲観音の着物を修復した方だった。さっそくお話を聴いてみた。松本喜三郎が作った淨国寺の谷汲観音と来迎院の聖観世音菩薩の二つの活人形の着物を修復するのに約2年の歳月を要したそうだ。匠の世界の話には引き込まれてしまう。そう言えば昨年、谷汲観音を観に行った時、住職が着物の修復の話をされたのを思い出した。

2014年10月30日
 松本喜三郎作の活人形「谷汲観音像」に会いたくなり、4年ぶりに熊本市北区高平の浄国寺を訪れた。本堂に上ると、奥様が開口一番、「今、BSで放送していますよ」と仰る。何という偶然、浄国寺を訪問した、まさにその時間、NHKプレミアムで、4年前にNHK-BS2で放送した「男前列伝」という番組の再放送をやっていた。俳優の山本耕史が熊本を訪れて、活人形「谷汲観音像」に強く心を動かされるという内容だったが、僕はその番組を見て初めて浄国寺を訪問したのだった。今日また再放送されることは全く知らなかったので、目に見えない力に動かされたような気がしてならない。そして4年ぶりに拝んだ観音様の表情は、今回もまた「すべてお見とおしだ!」と仰っているような気がした。

2016年10月19日
 前回の参拝からちょうど2年ほど経つので、そろそろまた谷汲観音様をお参りに行こうかと思い、高平の浄国寺さんに電話をしてみる。ご住職が電話に出られたので、ひょっとして地震の被害を受けているのではないかとおたずねしてみると、谷汲観音様はご無事だったとのことでホッとする。ただ、本堂がかなり損壊し、修復工事があと1ヶ月ほどはかかりそうだとのことなので、年末くらいに一度お伺いしてみることにした。

2017年11月14日
 先日、姉が高平の浄国寺近くのバス停で、栃木県からやってきたという若い女性と一緒になったそうだ。その女性は浄国寺の、松本喜三郎作の生人形「谷汲観音」を見に来たのだという。わざわざ栃木県あたりからも見に来る方がいるのかとちょっとビックリ。
 そういえば、昨年、地震の影響がなかったかどうか確かめに浄国寺へ行ってからやがて1年。年内にまた拝観しに行くとしよう。
 そもそもこの生人形「谷汲観音」は、熊本市迎町出身の人形師松本喜三郎が、維新後の明治4年(1871)から明治8年(1875)にかけて、浅草の奥山で興行し、大成功をおさめた「西国三十三所観音霊験記」の中の生人形の一つ。喜三郎にとって最も愛着が強い作品だったようだが、上野の西郷隆盛像などの彫刻で知られる高村光雲は、「光雲懐古談」の中で、谷汲観音について次のように述べている。

 三十三番の美濃の谷汲観音、これは最後のキリ舞台で、中で一番大きい舞台、背景は遠山ですべて田道の有様を写し、ここに大倉信満という人(奥州の金商人)が驚いている。その後に厨子があって、厨子の中より観音が抜け出した心持で、ここへ観音がせり出します。この観音が人形の観音でなく、また本尊として礼拝するという観音でもなく、ちょうどその間を行った誠に結構な出来で、頭に塗傘を冠り右の手に塗杖を持ち左の手にある方を指している図で、袈裟と衣は紗の如き薄物へ金の模様を施し、天冠を頂き衣は透きとおって肉体が見え、何とも見事なもので、尤もこれはキリの舞台にて喜三郎も非常に注意の作と思われます。

2022年6月8日
 しばらくご尊顔を拝していない浄国寺の谷汲観音様。12年前に初めて訪れた時、観音様の表情とともにそのポーズに魅入られた。「西国三十三所観音霊験記」第三十三番の美濃谷汲山・華厳寺には概ね次のようなストーリーが書かれている。

 奥州の金商人である大倉信満は大慈大悲を深く信じており、その霊験か、ある時、文殊菩薩の化身である童子が現れ、霊木の松の木で十一面観音像を造って信満に与えた。信満は京都仁和寺でこの像の供養をした後、美濃垂井までやって来たが、背負った観音像を納めた厨子が重くて動けなくなった。すると厨子の中から観音様が出てきて、ここにゆかりの地がある。あと五里ほど行った辺りに鎮座させなさいと宣う。そこが谷汲という地だった。信満は観音様の大悲の御心に従い、そこに伽藍を建立した。観音像の蓮台の下から湧き出る油によって常灯明を灯し、谷汲寺と号した。

 この話から察するに谷汲観音様は、今まさに厨子から出てきたところで、信満に進むべき方向を指し示している場面なのだろう。だから観音様の視線は信満に注がれており、左手が指し示しているのが谷汲の方向なのだろう。具体的には書かれていない観音様を造形し、谷汲観音と名付けた松本喜三郎のセンスは並外れていると言わざるを得ない。


YouTube歴15年

2023-11-05 22:45:47 | 音楽芸能
 YouTubeへ投稿し始めてもうやがて15年になる。現在まで、公開・未公開合せて810本投稿しているが、この間にはいろんな思い出がある。なかでもYouTubeを始めて1年後の「少女舞踊団ザ・わらべ(現舞踊団花童)」との出逢いが大きかった。彼女たちの存在を広く知らしめたいとの思いがYouTubeを続ける原動力になったことは間違いない。
 熊本城築城四百年記念事業として1999年から始まった本丸御殿の復元工事は2007年に完成した。翌2008年4月から一般公開が始まったが、当初は制約が多く腫れ物に触るような公開だった。それが2010年に入り、さらなる観光振興のため、大広間で伝統芸能を中心としたイベントが行われるようになった。2010年から2016年の熊本地震で本丸御殿が閉鎖されるまで、「春の宴」や「秋夜の宴」などのイベントが盛んに催され、その多くでメインキャストを務めたのが「少女舞踊団ザ・わらべ」だった。その映像が、15年にわたるYouTube歴の中で最も印象深い。
 本丸御殿の復旧完了は10年後になるようだ。もし復旧後に同じようなイベントが行われたとしても僕はもう見ることはできないかもしれない。かつて本丸御殿大広間で繰り広げられた芸能の数々を平成時代の貴重な文化史料として後世の人々に見ていただけるよう映像の再編集に努めていきたい。


本丸御殿大広間(手前から梅の間、桜の間、桐の間そして最奥部に見えるのが若松の間の障壁画)


【収録内容】
〽松(本條流祝儀曲)
〽藤寿三番叟(藤本流祝儀曲)
〽牛深三下り(牛深民謡)
〽ポンポコニャ(熊本民謡)
〽伊勢音頭(伊勢民謡)
〽熊本自転車節(熊本民謡)

  企画演出・振付:中村花誠
  立方:少女舞踊団 ザ・わらべ
  地方:本條秀美と秀美社中/藤本喜代則と喜代則社中/中村花誠と花と誠の会 他

想い出の家族旅行

2023-11-04 22:14:15 | ファミリー
 母の卒寿を祝おうと、母とわが兄弟姉妹4組の夫婦連れで、人吉~五木村~五家荘を旅してからやがて12年。旅行好きだった亡父が特に好きだった県南を巡ってみようと思い立っての家族旅行だった。
 12年の歳月が流れ、今年101歳を迎えた母は、幸い何とか生きながらえているが、一緒に旅した義兄(姉婿)と弟は既に鬼籍に入った。僕を含め残った兄弟姉妹もみな健康面で問題を抱えており、家族旅行の再現は難しそうだ。
 毎年この時季になると決まってこの旅行のことを懐かしく思い出している。


青井阿蘇神社に参拝


小雨の中、樅木の吊橋を渡って五家荘へ向かう


宿泊でお世話になった人吉旅館の女将さんと娘の嘉恵さん


 嘉恵さんは当時「少女舞踊団 ザ・わらべ」に所属していた。(真ん中が嘉恵さん)

鏑流馬の伝統を次代へつなぐ

2023-11-03 17:12:31 | イベント
 今日は「秋のくまもとお城まつり」恒例の「武田流騎射流鏑馬」が熊本城二の丸広場で行われ、日中は27℃という夏日にもかかわらず、連休初日とあって最近二の丸広場では見たことがない大勢の観衆がつめかけ、約1100年の歴史を有し熊本県重要無形文化財でもある「武田流騎射流鏑馬」の迫力に歓声を上げていた。古武道である騎射流鏑馬にも女性入門者が増えてきたと見え、今回の射手7名のうち2名が女性射手だった。1100年の歴史を次代へつなぐ一端を女性が担っていくのかもしれない。


武田流騎射流鏑馬宗家・竹原家14代師範の騎射


増えつつある女性射手

北前船が運んだもの ~しげさ節~

2023-11-02 22:12:42 | 音楽芸能
 先週、夏目漱石内坪井旧居で行われた「舞踊団花童公演」の演目18曲のうち、唯一初見だったのが島根県隠岐の島の民謡「しげさ節」だった。テレビやYouTubeでは視聴していたが、最近、花童の演目になったと聞いていたので今回は最も楽しみにしていた。
 この「しげさ節」の元唄は、新潟県柏崎地方の盆踊唄・座敷唄の「三階節」だといわれている。隠岐の島も柏崎も北前船の寄港地だったので船乗りたちによって伝えられたともいわれている。しかし、「しげさ」(出家さんがなまったもの)という言葉が「三階節」の原歌にも謡われているので、逆に隠岐の島の「しげさ節」が柏崎に伝わって「三階節」になったのではという説もあるらしい。ただ、「しげさ」という言葉は柏崎の古い民話に出てくるらしいのでやっぱり「三階節」が元唄のような気がする。
 いずれにしろ民謡の故事来歴を調べると実に興味深い事実がわかって楽しい。

舞踊団花童が踊る「しげさ節」(花童あおば・花童はるか・花童もえ)

「しげさ節」の元唄といわれる「三階節」