Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

音楽が場面が示す表情

2023-01-02 | 
承前)ジルフェスタ―コンツェルトのプログラムにクラスティング氏が書いている。つまりそのドラマテュルギーとしてまたペトレンコのブレーンとして、プログラミング作りにも参画した筈だ。

三年程前の企画として、カウフマンの声を如何に使うかにも配慮された筈で、「運命の力」の歌も、上が不安定になっていたが、その声の暗い質を使い切った選曲だったと思う。

イタリアへの憧憬、そこでの愛がテーマになっており、ヴェルディの「運命の力」が「シモンボッカネグラ」や「仮面舞踏会」と少し間を置いて作曲されている。既に作曲を辞めて代議士となっていたようだが、ペテルスブルクからの注文ということで1862年に作曲に戻ったようだった。ロシアとの繋がりはこれまた意外であった。

イタリア独立に戦った作曲家であり、そのオペラも政治的な内容に満たされているのだが、同時にここでは更に社会正義などを扱った内容が並べられている。明らかに裏テーマとなっている。チャイコフスキーは1879年から1880年にかけてもローマに出かけているようで、その文化的な精華に特に興味を持ったようであった。

イタリア社会との繋がりはその程度として、ニノロータの「ゴッドファーザー」からの歌に続いてショスタコーヴィッチまでアンコールとして加えて、一部には必要だったかと懐疑された。

しかし先にツァンドナーニのアリア「ジュリエット」からプロコフィエフの「ロメオが従弟を刺す場面」と、まさしくロシアから愛を込めての家庭間の紛争となっている。イタリアでは、その家族との付き合いが今でも男女関係の一番の大きな試金石となっている。

そしてヴェリズムオペラで有名なカラヤンも得意とした間奏曲のマスカーニの「カヴァレリアルスティカーナ」で戦争帰りの主人公が嘗ての許婚の旦那との決闘に至り、嫁を母親に託す歌となる。

ベルリナーフィルハーモニカーが毎晩奈落に入っている座付き楽団と同じぐらいに上手に演奏するのは前述通りなのだが、そこで音楽で表れる表情があまりにも迫真に満ちていて、動機毎にありうるだろう場面毎に適格で激しい表情を見せる。

まさしく復活祭においてキリル・ペトレンコがその演出の下で描こうとしている音楽であり表情そのものなのである。その様な音楽が場面毎にどのような設定の舞台であっても表現される舞台表現でなければいけないという事である。その為にも今日の聴衆にとっても違和感なくその表情が感じられる演出でなければいけないことになる。

逆に、演奏されたロータの音楽こそはその映画の内容や場面を知っていなければほとんど意味を成さない音楽で、純音楽となっている。まさに最後にシュスタコーヴィッチをもって来た意味合いもそこにある。



参照:
作曲家の心象風景を表出 2022-08-22 | 文化一般
集中や誇張のアクセント 2022-04-08 | 文化一般
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避けがたい芸術の力

2023-01-01 | 
大晦日のジルフェスタ―コンツェルトは価値があった。ベルリンのそれはカラヤンが始めたようだが、昨年までは特別料金でエンタメ公演として売られていた。ヴィーンのノイヤースコンツェルトも今ほど国際的な名声も無かった頃だろうから、カラヤンも柳の下の泥鰌を狙っていたのかもしれない。だから晩年の1987年に楽団との関係が疎遠になるまでは大晦日に本番のあるノイヤースコンツェルトに登場することもなかった。

1986年にはベルリンで第九でフェストヴォッヘで新シーズンを始めたのであったのだが、その後キャンセルして、小澤がサントリーホールでの杮落としで日本でカラヤン以外で初めてベルリナーフィルハーモニカーを振ることになった。

1978年のジルフェスタ―コンツェルトに登場して、今回と同じようにプログラムの冒頭にはヴェルディの「運命の力」序曲を指揮していた。これも今回のプログラミングへの参考になっただろうポピュラーコンサートであった。

今回のプログラムが発表されてから注目していたのだが、初日木曜日の批評も劇場では絶対聴けないシャープさと避けがたい運命の大波の中の傷つきやすい潔白が描かれたとして大絶賛されていた。

やはり予想通りの名演で、その明白さとスピード感は嘗てミラノスカラ座でアバドがアシスタントのシャイーに練習させていた初期の「マクベス」や「シモンボッカネグラ」の歴史的名録音や実演に相当するもので、この曲を十八番としたムーティなどでも為せるような演奏ではなかった。最初から大歓声が沸くのは尤もである。

幸いカラヤン指揮のそれも映像としてデジタルコンサートホールで提供されているので比較すると明らかとなる。既に体調を壊していたカラヤン指揮ではあるが、そのサウンドは出来上がっていて、如何にそこに出版されている楽譜を当てはめていくかの作業のみならず、その歌い口も上手い。どのような曲を演奏しても立派な音響で山を築く。しかし、その音楽が語るものが訳の分からないセンチメンタルであったり、姿の見えない何か運命的なものであるとするとまるでピントが暈けたアニメオペラぐらいしか浮かばないのである。アメリカン配置で演奏させていて、何を狙っていたかが明らかだ。

カラヤンにとってはヴェルディも重要なレパートリーであって、その「ドンカルロス」などの録音はやはり残したものとして代表的ですらある。しかし、そのベルリナーフィルハ―モニカーの復活祭のオペラ演奏が決して芸術的に大きな価値を残すようなものでなかったのはこの序曲を聴いても既に明らかだ。

ペトレンコ指揮のベルリナーフィルハーモニカーは、復活祭での「スペードの女王」で認識されたように決して座付き楽団に負けないぐらい歌に合わせて演奏する事が可能となっていて、それどころかミュンヘンでは叶わなかった音響が可能となっている。

現在のベルリナーフィルハーモニカーの演奏は、明らかに今迄の交響楽団のその範疇を越えて新たな大管弦楽団のあり方を進化させているその証明がこの僅か8分程の演奏にも表れている。(続く

オンデマンド:Silvesterkonzert der Berliner Philharmoniker



参照:
暮へのお片付け 2022-12-29 | その他アルコール
感興豊かな躍動性 2020-01-18 | 音
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