私の母校「中大」は地味ーーーな学校です。
正月の箱根駅伝では、まん年4位でしたが、最近はちょっと落ち気味で7位~8位、シードギリギリが多い。しかもTV中継では往路が目立つのに、往路より復路に毎年力を入れている気がします。復路優勝してもTVに写らないってば!
そんなこんなで、目立たないこと、この上なし。
多摩の地に神田駿河台から移転して、今年で30年になるという。
私は駿河台世代なんで多摩校舎は見たことがない。
移転当時は多摩動物公園の象やライオンの遠吠えがパォーンと聞こえていたという。今でもそうかもしれないが、、、えらく遠くへ引っ越した、、、。
ふと、ホームカミングデーがあることを知ったので姫と二人でおじゃまむしでした。
それに北朝鮮に拉致された蓮池薫さんの講演があると聞いたから。拉致当時は学生だったんです、24年は長かったろうー!
まずは、新撰組のハッピを着せられて記念写真。新撰組は多摩=日野らしいが良くわからん。
学内に入ったら、まず大学饅頭でしょうと600円。ちっと高い気がするけどまーいいか。
お祭りのような人出で、出展ブースは45もあった。無料法律相談から各種相談所があったのは法曹界に強い中大らしかった。
まー立ち寄るところは、食べ物のブースでしたが、、、。
おぉこれは中大マーク入りのMaryチョコレートじゃないですか。これで1000円とはお値打ち品!
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学生たちがやっているイベントもあったが、やはり蓮池さんの講演でなまの声を聞きたかった。
会場は大講堂といっていいくらいの広さだったが立ち見の人がいるくらい満員。
うわー年配の方たちばかりだーと思ったが、自分もその中のひとりなんだと、いまさらながら過ぎ去った年月の長さを自覚。
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蓮池さんの声はハッキリと力強かった。
臨機応変に境遇に合わせ生きる、「生きよう」という強い意志を短い時間の中から感じた。
そうじゃなきゃ、政情不安な北朝鮮で生き延びられなかっただろう。
彼が拉致されて数週間後に、夏休みが終わる頃には日本に帰りたいと、向こうの人に話したら、全然話が通じずそれで自分が置かれた立場に愕然としたという。
それも無理はない。蓮池さんは当時21歳の、東京へ出てきて数年しかたっていない若者だった。私にしちゃ21歳はまだ人間じゃない。右のものとも左のものともわからない、混沌としたものというくらいのもの。
彼女と2人でいるところを拉致されたが、当初は「お前には、これから女は必要ない、彼女は本国に帰した」といわれたそう。彼女のほうも同じように「これから男は必要ない、お前の男は日本に帰した」と聞かされていた。
蓮池さんは、自分の置かれた立場に愕然としたが、早い時期に生きていくためにハングルを覚えなきゃと決心したという。そのあたりが蓮池さんの頭の切り替えのすばやいところ。
しばらくして、彼女と再会し、結婚し子供ができ、北朝鮮で家庭を持った。
どう生きるか???
蓮池さんは、自分のことはどうでも、、、子供のために「朝鮮人」として生きようと決心したという。
万が一、百にひとつでも日本へ帰れるかもしれないが、そのことは子供には完全に伏せておいたと、、、。どういうことかというと、本当は拉致されたんだが、自分たちは在日朝鮮人だったんで、母国に戻ってきたと子供たちに話して聞かせていた。
そうでもしないと、北朝鮮内では肩身が狭く、何があるかわからない。拉致されたて連れてこられたといえ、日本人とわかったら何があるかわからなかったからだ。
2002年に日本に24年ぶりに帰国したときも、子供たちには国内旅行に2週間出かけてくると言い聞かせた。子供たちは北朝鮮で生まれ育ったから、北朝鮮の思想に染まっているのだろう。
日本に帰国してから、蓮池さんの最大の決心は、子供を北朝鮮に置いてきたが、夫婦そろってこのまま日本にいようと決心したことだったと。時の日本政府、外務省全てに下駄を預ける決心は辛かっただろう。説得に当たったのは、新潟で幼馴染の友達たち。けっして大学に入ってからの知り合いじゃない。
夫婦で意見がわかれ、あんたはやっぱり男だとなじられたこともあったそう。子を思う母親を説得した蓮池さんの意思が強かったのだろう。
拉致されて、思い出すのは小学校の地元の仲間の顔だったという。住んでいる所の右から左まで一人ひとりづつ思い出していた。夢の中にまで幼馴染がでてきて「お前もここに拉致されたのか」と、、、。目が覚めて「やっぱり1人だった」と孤独にさいなまれる毎日、、、。
講演の最後に、蓮池さんは
ここに帰ってきて良かったと、ほんとに思うと。
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力強い声を聞いて少し安心しました。大学の恩師というのがしゃしゃり出てみっともなかったのを除けば講演はよかった。