民話の里、遠野に足を延ばしました。
遠野に来たのは、、、かれこれ40年ぶり以上かもしれない。
私が若かったころ、日本中、世界中を旅していた。遠野はその当時から民話や神話の里として注目されていた。
ただ私が遠野に行ったのは岩手の名峰、早池峰山へ登るためだった。
早池峰に登った時は大雨で、頂上についても小屋が人でいっぱいで、早々の体で下山したことしか覚えていない。
雨で滑りやすい岩を伝って登った記憶しかありません。
遠野の記憶もほとんどない。
行ったところは、だいたいが何らかの印象を持っているのだが、遠野周辺の記憶が少ないのが実際のところ。
じゃ今回はどーかな?
じゃーん
やっぱり大雨で、釜石街道沿いの猿ヶ石川が濁流になっていた。
大木が橋脚に引っかかり警察と自警団の方たちが監視していた。
明日、大型の台風が来るから、、、心配です。このところ大雨が続いていますから。
遠野の古城跡に登りました。
コンパクトな地方都市です。
昔は海と山の交易で栄えたそうです。
遠野南部氏のお城跡が神社になっていましたが、登っても何もない城址跡。
登り口に遠野市立博物館があって、遠野の歴史を展示していました。
遠野物語などが民話で有名だが、実際の遠野は民話や伝承の感じさせるような物の保存が足りないと感じた。
木曾の中山道にある妻籠や、会津西街道の大内宿は伝承というより、現物の宿場町の保存だから、ある意味で簡単なのかもしれない。
遠野は「遠野物語」が核なので、物語の可視化やイメージの具現化が難しい。
映像を作るのはできるが、遠野に来て何を体感してもらうかが難しい。そこが遠野のウイーク・ポイントだと思うのだが、、、。
JR遠野駅では河童や蛙を遠野のシンボルにしていたが、、、ちょっと役不足じゃないか、、、。
遠野物語の後押しになっていないよーーー。
2015年8月 大内宿
こういう地方都市の売り出し方はむずかしいなーーー。
遠野の売り出しには誰か腕利きのプロデューザーが欲しい!
駅近くには味のある和風建造物があるんだが、、、。
これはこれは、、、。
東北は熊と蝦夷の国だった。
まー江戸時代以前は純然とした日本じゃなかったんだろう。
茨城県の太平洋沿いは「勿来の関」という地名があるとおり、北方の蝦夷たちはここから南には来るな(来るなかれ)と、北関東で宣言していたんだからー。
一関の近くに鬼越沢という地名があったり、鬼首(オニコウベ)という地名などが残っていますが、、、歴史の解釈では鬼は蝦夷(アイヌ)のことを指すそうです。
そのあたりの蝦夷の勢力が強くて、当時の朝廷勢力が手こずったと言うことなんだ。
鬼首では朝廷勢力と蝦夷の激しい戦いや化かしあいがあったのだろう。
鬼首とは蝦夷の首と言う意味で、物騒な言葉でしょーーー。
明治の初めになると蝦夷は北海道だけになって、東北はほぼ全域倭人に占領された。
その当時、日本を南北に旅したイザベラバードの記録によると、北海道の蝦夷(アイヌ)は倭人の持ってきた酒に魂を抜き取られていると書いてあった。
アイヌは文字を持たない民族でアイヌの歴史がわからない。
文明も鉄器を持っていなかったので、倭人が入ってきてから鉄器を知った。
北海道の森の中に、いたるところに毒矢が仕掛けられていて、倭人の役人や開拓者が森の中に入ったときに毒矢の餌食になることが多く、仕掛け毒矢が倭人政府により禁止されるようになった。
つまり、アイヌ独自の生活の知恵や狩りを禁止させられたのだ。
それでアイヌたちは、わずかばかりの手工芸品との物々交換で得たお酒におぼれる生活をしていた。
昔話で「鬼退治」などがあるが、それを考えると悲しいものがある。だから「桃太郎」の話など子供向けのお話のようで、実際は悲惨なお話がもとだったんじゃないかな。イザベラバードが1890年代に撮影したアイヌの写真は、どことなく「鬼」の服装と重なるじゃない?
イザベラバードは誇り高いアイヌが、酒で堕落したことを悲しんでいた。イザベラバードはアイヌや中国の蛮子(チベット族に対する漢民族の呼び方)に親しみを感じていたようだ。滅ぼされる民族は、むしろ誠実な民族の可能性がある、、、。
2016年1月20日 イザベラバードの日本紀行(文明開化直後の日本を徒歩で旅しました)
http://blog.goo.ne.jp/photostudioon/e/119fb8e45d2c7563144f348f6c65d6bb
ちゃぐちゃぐ馬っこですねーーー。
東北には知られざる歴史がありそうです、、、。