一関へお盆のお墓参りをしてきました。
と言っても、お墓があるわけじゃなく里山に樹木葬されたものです。
一関は中尊寺がある平泉に近く、東北地方では中世から人が住んでいた歴史がある地域です。
日本初の樹木葬は知勝院で一関から西に向かったところ。
樹木葬と言ってもいろいろで、結局墓石や墓域を囲ったりして、なんのこっちゃというところが多い。東京近郊の樹木葬などは、私にしてみれば「樹木葬と言っている新墓商売」みたいだと思う。
知勝院は里山を手入れして30cmほどの直径の穴を1m掘り、骨を入れた後はお好みの木を1本植えるだけ。目印に小さな立て札か木柱を立てて、朽ちればどこにあったかさえ分からなくなる。1本の植えた木だけが残ります。まさに、、、樹木葬です。
さてさて、お参りが終わったら栗駒高原に向かいました。
じゃーん
大雨が降っていて、橋の上からちらっと見えたのが、この光景。
遠くに橋がポッキリ折れているじゃないの、、、。
2008年6月の岩手・宮城内陸地震で落ちた橋がまだそのままになっていた。
今日は大雨だし、川が増水して茶色く濁っている。
この地震は内陸型地震でマグニチュード7.2もあったが、比較的に人的被害が少なかった。山間部の過疎地だったからでしょう。栗駒山の登山口の須川温泉では土砂崩れがあったり大浴場が崩れたりして大変だったそうです。
このあたりの地名が栗原で、実際に古くから栗の木が多かったようだ。
はい、確かに栗の木があります。
一関から栗駒高原に向かって、少し手前に広々とした盆地がありました。
田園風景が雨にかすみます。
いいところだなーと思っていたら、、、骨寺村荘園交流館なるものがあった。
国道から少し入ったところなので目立たないが、気になったので立ち寄りました。
だって「骨寺村」とは聞き捨てならないでしょ~~~。
じみーな看板も小さくしか出ていなかったから、、、聞いたら、国交省から看板を出すなと注意されているそうだ。もしかして、この環境を保全しているかもしれない。
そういえば、このあたりの道路沿いは、あまり立て看板や見苦しいものが見えない。昔ながらの、と言っても私が小さかった頃の田園風景だ。
そして、一風変わった名前の館に入って、ようやくその意味が分かった。
このあたりにあった骨寺(室町時代にはすでに骨寺跡地になっていた)周辺は、室町時代の古書、古地図に詳細に書かれていて、現在の村の姿も古来からの配置そのままなのだという。
人家の位置も、田畑も、小さな小川も、神社もそのままの形で500年以上同じようにたたずんでいる。
それで、環境保全地域に指定されているようだ。
有名な神社仏閣が残っているのは、それほど珍しいことではないけど、村のありかたや里山のありかたが500年も変わらないというのは、すごく珍しいことです。
ひとつの理由が隔絶された盆地であるということ、栗駒山から吹き降ろす強風を避けるため、イグネと呼ばれる屋敷林が中世以来の姿形を保っていたのだろう。
絵図には、一軒一軒の田畑の広さまで描かれている。
500年前は灌漑ができなかったので、家屋の前のほんのちょっとの広さの田畑だったよう。
東京近郊でも玉川上水は江戸の飲み水を確保がメインの目的だった。がしかし実は玉川上水は30本以上の用水の分水があって練馬や近郊の高台を灌漑していた。そうでもしなきゃ練馬などは畑もできなかったそうです。江戸時代の日本の治水はすごかったんです。大田区や世田谷区のあたりは六号水路という多摩川からの灌漑用水で田畑を潤していた。それも江戸時代のことでした。
だから東北の一関の、さらに山に入った骨寺村はちっちゃな田畑しか持てなくて当たり前だったのだ。現在は骨寺村盆地一面青々とした田んぼになっているが、昔は人家の前だけちょびっと田畑があっただけなんだ。小さな小川が流れているが、そのキャッパシティを超える農業はできなかった。
人家の西側、栗駒山側には今ではびっくりするほど高くイグネ(屋敷林)がそびえている。
家屋の高さと比べてください!
もしや、もしやの、室町時代からのイグネ(屋敷林)ですか???
東北の、ただの奥地の村が、500年前の室町時代のまま、そのままの環境で残っていたのは貴重です。昔から骨寺と中尊寺が親戚関係にあり、中尊寺の荘園だったからでしょう。(正確じゃなくアバウトですが)
今でも田は区画整理されていない。
小さな田んぼが複雑に組みさわっていて、山間部なので当たり前に段々畑です。いまでは棚田と呼ぶらしいが。
崖の手前に川が流れていて、昔の絵図にも描かれています。
家屋の西側にはイグネがあります。
たしか、この真ん中あたりを灌漑用の小川が流れていたはず。
たぶん、昔は田畑は少しで、ほとんどが荒れ地だったのだろう。
学芸員の方の話では、この地でも古来から稲作をしていたが、民の口に実際に入るのは栗だったのではとのこと。それで栗駒山だし栗原という地名になっているのではと、、、。
骨寺村=本寺には酪農があって、美味しい乳製品がありました。
今では大人気で、お店の中には行列ができていた。
私は骨寺村荘園交流館の売店で買いました。
立派な交流館の案内板を国道に出せないので観光客も少ない。
実にもったいない。
交流館にはシアターがあって、空撮の第一人者(多胡光純さん)の映像がすばらしい。骨寺村の美しい田畑や自然を空撮で撮られた映像が2本上演していただいた。最近だったらドローンで撮影するかもしれませんが、多胡さんはモーターパラグライダーで撮影されています。ドローンとモーターパラグライダーは一長一短あります。ドローンは1回につき短時間しか撮影できないけど、その代わり小さいので林の中をくぐったり窓から外に出て行ったり自由です。モーターパラグライダーはファインダーを見ながら撮影でき、長時間飛行が可能です。
ところで、一関の名物料理は、、、お餅です。
一番人気が餅御膳。
ジャーン
しょせん、お餅ですがいろんな具と絡めて食べると楽しいですねー。
こんな小海老と一緒にか~~~。
うどんを頼んだら、、、。
うどんは栗駒山を超えて秋田に入ると稲庭うどんが有名です。
ところが、うどんにもお餅がついてきました。
じゃーん
なかなかでしょーーー。
何にでもお餅が付属してくる。
東北においでの際は一関に立ち寄り、餅御膳を食べてください。
歴史の表舞台に出てくるもの(神社仏閣)は良く知られていますが、民の営み(ありよう)は歴史から忘れ去られています。
それが、そっくり骨寺村には遺構として存在しています。
ぜひ訪れてみることをお勧めします。
骨寺村荘園遺跡
骨寺村荘園遺跡を訪ねる
http://homepage1.nifty.com/tmpage/00kitanogennba/12honetera/honetera.htm
まんがで見る骨寺村の歴史
http://www2.pref.iwate.jp/~hp0510/kamisibai/sibai-10-2.htm
知勝院(日本初の樹木葬)