クラシック音楽をする上で(クラシックに限らず!?)
その音楽に、旋律に、歌に、
感情がどう関わるかは、音楽する上での
大きなポイントのひとつと言えましょう。
これは演奏者にとっては
「感情の込め方」の問題といえましょうか。
ちなみに、クラシック音楽においては、
「espressivo」という楽語表記によって、その場所に
感情を「込める」よう指示がなされる「具体的な」方法があり、
楽譜を通して過去の大音楽家達から
直接そのような指示を受けることができるのが
時空を超えた人間同士の交わりあいというクラシック音楽における
普遍的な醍醐味と思わずにはいられません。
それはともかく、
ところで、
表情豊かな演奏は、聴く人の好感を得て、
面白い音楽と思っていただけることでしょう。が、
どうも、表情豊かであればそれでよいか!?というと、
様々な疑問、あるいは反論も出てくるのではないでしょうか。
「感情過多」という批判もあり、
あまりに没感情的な演奏は
好感を持ってもらえないこともあるのは
何となく想像できるところではないでしょうか・・・
感情過多でもよくない、
かといって無味乾燥な音楽だってゴメンです。
はてさて、どうしたものでしょうか。
こうした問題をクリアしてゆくには、
その場その時に見合った状況を把握して
音楽してゆくより仕方がないようです。
↑当たり前のような話、でも、
これがなかなか難しく、でもきっと
遣り甲斐あるところでもあるのです。
では、
その場その時に見合った音楽を把握するとは!?
ひとつ、ふと今日思いついたところをご紹介いたしますと、
イメージ論的ではあるのですが、
その音楽が、その時、
「人間的であるか」
あるいは
「自然的であるか」
という風に考え・感じてみると、
もしかすると、その音楽における感情の
「込め方」あるいは「込めな方」
(・・・変な日本語を↑ご容赦・・・「込めないやり方」というつもり)
が分かってくるように思えたのです。
もちろん、
「人間的」であると思える音楽には、感情を込め、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/e7/178c247309a8df01a974910f9ceff15c.jpg)
「自然的」である音楽と思えるなら、そこに感情は込めない。敢て無感情を心掛ける。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/8f/33a55408cd0c5bc3f43ae1fbdedd1459.jpg)
ごく単純に考えてみて、
人間には感情があります。喜怒哀楽。
では、自然には?
こうした考察が、その音楽における感情を「込める」か「込めない」か
を判断するにあたっての、大きなヒントとなるような気がするのです。
クラシック音楽においては、
その数百年の歴史の中で、特にベートーヴェン以降は顕著に
感情の「爆発的」なまでの表現がなされるようになってきました。
それはベートーヴェンの姿・伝記、そして何よりも
彼の書いた音楽を思い起こせば明らかでしょう。
それに続く多くの音楽家達が、
ロマン派といわれる音楽の潮流にのって
なんと表情豊かな音楽世界を創りだしたことか!!
そうした作品達と向き合うにあたって、
今を生きる我々の個々の「感情」なるもの
(それはどこかで普遍的な源流で皆結びつきあっているような気が
最近の私にはしてならないのですが)を、
実演奏においてどのように扱うか。
感情を込めるのか、爆発させるのか!?
あるいは、込めず、静かに静観するのか・・・
こうした千差万別の有機的な音楽造りを心掛け、
その音楽における最も適した表現を探り当てて
それを演奏せしめることは、
この道・クラシック音楽を極めんとする
匠の道なのかもしれません。
その音楽に、旋律に、歌に、
感情がどう関わるかは、音楽する上での
大きなポイントのひとつと言えましょう。
これは演奏者にとっては
「感情の込め方」の問題といえましょうか。
ちなみに、クラシック音楽においては、
「espressivo」という楽語表記によって、その場所に
感情を「込める」よう指示がなされる「具体的な」方法があり、
楽譜を通して過去の大音楽家達から
直接そのような指示を受けることができるのが
時空を超えた人間同士の交わりあいというクラシック音楽における
普遍的な醍醐味と思わずにはいられません。
それはともかく、
ところで、
表情豊かな演奏は、聴く人の好感を得て、
面白い音楽と思っていただけることでしょう。が、
どうも、表情豊かであればそれでよいか!?というと、
様々な疑問、あるいは反論も出てくるのではないでしょうか。
「感情過多」という批判もあり、
あまりに没感情的な演奏は
好感を持ってもらえないこともあるのは
何となく想像できるところではないでしょうか・・・
感情過多でもよくない、
かといって無味乾燥な音楽だってゴメンです。
はてさて、どうしたものでしょうか。
こうした問題をクリアしてゆくには、
その場その時に見合った状況を把握して
音楽してゆくより仕方がないようです。
↑当たり前のような話、でも、
これがなかなか難しく、でもきっと
遣り甲斐あるところでもあるのです。
では、
その場その時に見合った音楽を把握するとは!?
ひとつ、ふと今日思いついたところをご紹介いたしますと、
イメージ論的ではあるのですが、
その音楽が、その時、
「人間的であるか」
あるいは
「自然的であるか」
という風に考え・感じてみると、
もしかすると、その音楽における感情の
「込め方」あるいは「込めな方」
(・・・変な日本語を↑ご容赦・・・「込めないやり方」というつもり)
が分かってくるように思えたのです。
もちろん、
「人間的」であると思える音楽には、感情を込め、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/64/e62899fd4f28faec7435b1ed4579f73b.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/e7/178c247309a8df01a974910f9ceff15c.jpg)
「自然的」である音楽と思えるなら、そこに感情は込めない。敢て無感情を心掛ける。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/84/1942c19365a2187b0aebbc35d94523e2.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/8f/33a55408cd0c5bc3f43ae1fbdedd1459.jpg)
ごく単純に考えてみて、
人間には感情があります。喜怒哀楽。
では、自然には?
こうした考察が、その音楽における感情を「込める」か「込めない」か
を判断するにあたっての、大きなヒントとなるような気がするのです。
クラシック音楽においては、
その数百年の歴史の中で、特にベートーヴェン以降は顕著に
感情の「爆発的」なまでの表現がなされるようになってきました。
それはベートーヴェンの姿・伝記、そして何よりも
彼の書いた音楽を思い起こせば明らかでしょう。
それに続く多くの音楽家達が、
ロマン派といわれる音楽の潮流にのって
なんと表情豊かな音楽世界を創りだしたことか!!
そうした作品達と向き合うにあたって、
今を生きる我々の個々の「感情」なるもの
(それはどこかで普遍的な源流で皆結びつきあっているような気が
最近の私にはしてならないのですが)を、
実演奏においてどのように扱うか。
感情を込めるのか、爆発させるのか!?
あるいは、込めず、静かに静観するのか・・・
こうした千差万別の有機的な音楽造りを心掛け、
その音楽における最も適した表現を探り当てて
それを演奏せしめることは、
この道・クラシック音楽を極めんとする
匠の道なのかもしれません。