私はピアノ弾きです。
扱う楽器はピアノです。
そして、その楽器の「楽器として」の扱いに関しては、
「ピアノ調律師」というプロフェッショナルの仕事があります。
ピアノという楽器は複雑です。最も複雑な楽器のひとつ
と言って過言ではないでしょう・・・
(残すは、オルガンが同等か、もしかするとそれ以上に複雑で巨大でしょうか?)
よって、
ピアノ弾きにとっては、
自分の楽器を「チューニング(調律)」するというのは
自己責任の範疇外のことなっているのが常識のようです。
それで、いいと思います。
なぜなら、
ピアノという楽器の大きさ・複雑さは
一人の人間が、一生をかけてその楽器に向かい合ってしかるべき
大きな仕事であると思われるからです。
それはとても遣り甲斐のある仕事です。
だからこそ、
ピアノを弾くからといって、
「中途半端」に、自分の楽器の「調律」や「調整」等に手を出すことは
非常に危険なことと、私はいつの日からか思っております。
もちろん、
ピアノ弾きが、自身で調律できてしまう人だっているようです。
楽器に興味を持ち、自分でそれをいじって、
自分の思うように調律・調整する、
それを否定する必要は全くないでしょう。
そういえば、
チェンバロ(バロックの鍵盤楽器)奏者は
自身で楽器の調律をする人が多いようです。
その理由は、チェンバロの調弦の耐久性は少なく、
1時間も演奏をしていると、調律が狂ってきてしまうので、
奏者はある程度の調律の技術を持っていた方がよいという
ことになるのでしょう。いちいちチェンバロ調律師さんに
1時間おきに仕事をしに来てもらうわけにはいきませんから!!
(調律師はぼろ儲け!?)
話がチェンバロのほうへそれてしまいましたが、
ピアノの調律に関して私個人の今の考えを公表させていただくならば、
やはり、ピアノを「楽器の調整」という分野においてしっかりと扱うのならば、
これは、その道のプロフェッショナルに任せた方がいいのでは、
と思えてしまうのです。
その理由は前述のとおり、
この楽器がすさまじく複雑で、大きいから・・・
私事で恐縮ですが、
自分の父親がピアノ調律師という仕事をしている影響は、
今回のこの文章には、少なからず反映されているのかもしれません。
「父の背中を見て」と言えばきれいな言葉ですが、
でも、これは過言でなく、実際、私は幼いころから
父の仕事振りを見ていて、自身はピアノを弾く勉強を幼いころからしていて、
「いやぁ・・・調律の仕事は大変だ、
自分は弾くことに専念しよう」
と思ったのは紛れもない事実なのです。
ところで、
父と私は車が好きということもあり、
意見がなんだかんだと一致するところがあるのですが、
それは、
ステージ・本番・演奏会における「ピアノ弾き」と「調律師」の関係は
カー・レース(F1やGT、Ralleyなど!?)における
「ドライバー」と「エンジニア」の関係と似ているという話なのです。
ドライバーは、ハンドルを握ってレースを走ります。
それは、舞台上に立ってパフォーマンスする演奏者と
一致するような気がするのです。
そして、
ドライバーにしろ、演奏者にしろ、
彼一人では、そのレース・ステージを
成り立たせることは出来ないようなのです。
多くの裏方の人々=チームのバックアップあってこそ、
彼はステージに立つことができるのです・・・
車の調子が悪かったら、それがレースであるなら、
エンジンブローしてリタイヤしてしまったりするでしょう・・・
タイヤ交換に失敗したら、大幅なタイムロスでレースの勝ちを逃してしまうか、
最悪の場合、走りながらタイヤが取れてしまったり、パンクしてしまったり、
そのままリタイヤというケースだってあります・・・
こうして考えてみると、
ドライバー一人でレースはできないのは
なんだか良く分かる気がしてきます。
舞台上の演奏者とて同じ!?
楽器の調子が悪かったならば、
その音楽会は悲惨な結果に結びつくことだって
あるかもしれないのです・・・
●調律がへにょへにょで不快な音を出すような状態だったら!?
●ペダルの調子が悪く、いくら上手に演奏しようとも
音が不本意に濁ってしまったら!?
●整音がばらばらで、旋律を奏でようにも、
意図しないアクセントに邪魔されてしまったら!?
・・・想像するだけでも恐ろしい!?音楽会の失敗が思い起こされます・・・
そうならないのは、
その楽器をちゃんと仕上げてくれる「調律師」という仕事人の
裏方の大事な仕事あってこそなのです。
だからといって、もちろん、
調律師だけいたって、音楽会にはなりません。
かといって
演奏者がいれば、それがいい音楽会になるかどうかは、
全く保障がありません・・・いや、あまりに危険・脆いといえましょうか。
両者そろってのチームワークが、
一期一会の音楽会という時空間、
カー・レースでいえば、その一回のかけがいのないレースであり、
そこにおける人間同士の「共同作業」の面白さ・遣り甲斐・魅力が、
大いに存在価値のある事柄なのではないだろうか、と、
そんなことを考え、思いを廻らせてみました。
扱う楽器はピアノです。
そして、その楽器の「楽器として」の扱いに関しては、
「ピアノ調律師」というプロフェッショナルの仕事があります。
ピアノという楽器は複雑です。最も複雑な楽器のひとつ
と言って過言ではないでしょう・・・
(残すは、オルガンが同等か、もしかするとそれ以上に複雑で巨大でしょうか?)
よって、
ピアノ弾きにとっては、
自分の楽器を「チューニング(調律)」するというのは
自己責任の範疇外のことなっているのが常識のようです。
それで、いいと思います。
なぜなら、
ピアノという楽器の大きさ・複雑さは
一人の人間が、一生をかけてその楽器に向かい合ってしかるべき
大きな仕事であると思われるからです。
それはとても遣り甲斐のある仕事です。
だからこそ、
ピアノを弾くからといって、
「中途半端」に、自分の楽器の「調律」や「調整」等に手を出すことは
非常に危険なことと、私はいつの日からか思っております。
もちろん、
ピアノ弾きが、自身で調律できてしまう人だっているようです。
楽器に興味を持ち、自分でそれをいじって、
自分の思うように調律・調整する、
それを否定する必要は全くないでしょう。
そういえば、
チェンバロ(バロックの鍵盤楽器)奏者は
自身で楽器の調律をする人が多いようです。
その理由は、チェンバロの調弦の耐久性は少なく、
1時間も演奏をしていると、調律が狂ってきてしまうので、
奏者はある程度の調律の技術を持っていた方がよいという
ことになるのでしょう。いちいちチェンバロ調律師さんに
1時間おきに仕事をしに来てもらうわけにはいきませんから!!
(調律師はぼろ儲け!?)
話がチェンバロのほうへそれてしまいましたが、
ピアノの調律に関して私個人の今の考えを公表させていただくならば、
やはり、ピアノを「楽器の調整」という分野においてしっかりと扱うのならば、
これは、その道のプロフェッショナルに任せた方がいいのでは、
と思えてしまうのです。
その理由は前述のとおり、
この楽器がすさまじく複雑で、大きいから・・・
私事で恐縮ですが、
自分の父親がピアノ調律師という仕事をしている影響は、
今回のこの文章には、少なからず反映されているのかもしれません。
「父の背中を見て」と言えばきれいな言葉ですが、
でも、これは過言でなく、実際、私は幼いころから
父の仕事振りを見ていて、自身はピアノを弾く勉強を幼いころからしていて、
「いやぁ・・・調律の仕事は大変だ、
自分は弾くことに専念しよう」
と思ったのは紛れもない事実なのです。
ところで、
父と私は車が好きということもあり、
意見がなんだかんだと一致するところがあるのですが、
それは、
ステージ・本番・演奏会における「ピアノ弾き」と「調律師」の関係は
カー・レース(F1やGT、Ralleyなど!?)における
「ドライバー」と「エンジニア」の関係と似ているという話なのです。
ドライバーは、ハンドルを握ってレースを走ります。
それは、舞台上に立ってパフォーマンスする演奏者と
一致するような気がするのです。
そして、
ドライバーにしろ、演奏者にしろ、
彼一人では、そのレース・ステージを
成り立たせることは出来ないようなのです。
多くの裏方の人々=チームのバックアップあってこそ、
彼はステージに立つことができるのです・・・
車の調子が悪かったら、それがレースであるなら、
エンジンブローしてリタイヤしてしまったりするでしょう・・・
タイヤ交換に失敗したら、大幅なタイムロスでレースの勝ちを逃してしまうか、
最悪の場合、走りながらタイヤが取れてしまったり、パンクしてしまったり、
そのままリタイヤというケースだってあります・・・
こうして考えてみると、
ドライバー一人でレースはできないのは
なんだか良く分かる気がしてきます。
舞台上の演奏者とて同じ!?
楽器の調子が悪かったならば、
その音楽会は悲惨な結果に結びつくことだって
あるかもしれないのです・・・
●調律がへにょへにょで不快な音を出すような状態だったら!?
●ペダルの調子が悪く、いくら上手に演奏しようとも
音が不本意に濁ってしまったら!?
●整音がばらばらで、旋律を奏でようにも、
意図しないアクセントに邪魔されてしまったら!?
・・・想像するだけでも恐ろしい!?音楽会の失敗が思い起こされます・・・
そうならないのは、
その楽器をちゃんと仕上げてくれる「調律師」という仕事人の
裏方の大事な仕事あってこそなのです。
だからといって、もちろん、
調律師だけいたって、音楽会にはなりません。
かといって
演奏者がいれば、それがいい音楽会になるかどうかは、
全く保障がありません・・・いや、あまりに危険・脆いといえましょうか。
両者そろってのチームワークが、
一期一会の音楽会という時空間、
カー・レースでいえば、その一回のかけがいのないレースであり、
そこにおける人間同士の「共同作業」の面白さ・遣り甲斐・魅力が、
大いに存在価値のある事柄なのではないだろうか、と、
そんなことを考え、思いを廻らせてみました。