クラシック音楽においては、
「調性」というものがあります。
これは音楽を始める初歩の段階において習うことでしょう。
それぞれの調性は、基本的には
五線譜の冒頭にある♯(シャープ)か♭(フラット)の数によって、
その音楽が何の調性だかが分かるようになっています。
●何もなければ、ハ長調C-Durかイ短調a-moll
●♯1個なら、ト長調G-Durかホ短調e-moll
●♯2個なら、ニ長調D-Durかロ短調h-moll
●♭1個なら、ヘ長調F-Durかニ短調d-moll
●♭2個なら、変ロ長調B-Durかト短調g-moll
などなど・・・etc・・・
●♯の付く順番を「ファ♯・ド♯・ソ♯・レ♯・ラ♯・ミ♯・シ♯」と覚えたり、
●♭の付く順番は「シ♭・ミ♭・ラ♭・レ♭・ソ♭・ド♭・ファ♭」と覚えたり、
それに属する調性の主音を、
●長調の♯系だったら順番に「ド・ソ・レ・ラ・ミ・シ・ファ♯・ド♯」
●長調の♭系だったら順番に「ド・ファ・シ♭・ミ♭・ラ♭・レ♭・ソ♭」
という「完全5度」の周期として覚えてしまったり・・・
ざっと、
このような「規則正しい」ルールに則って
クラシック音楽における調性というものは出来上がっております。
(この「規則正しさ」こそは「天の摂理」に基づくもの!?
と感動を覚えなくもありませんし・・・)
これは慣れてしまうと、
色々な曲に向かい合う際に、
譜読み段階でもすぐさま、♯か♭の数によって
その調性感を把握でき、その音楽を捉えるのに
とても役に立つ知識となります。
さて、ところが・・・
今日はふと、
この、我々にとって「当たり前」と定着している知識を超えた
「音楽そのもの」を捉えるにあたって
目からうろこが落ちるような気がしたのです。
例えば、思い返せば
今までの自分の経験において、
この規則に則らない楽譜が出現することもありました。
そんなひとつは、
今年前半に演奏会で取り上げたバロックの作曲家
クヴァンツQuanz作曲の《トリオソナタ》において・・・
音楽は明らかに「ハ短調c-moll」でありながらも、
楽譜には「♭は2つ」しか付いていないのです。
普通はハ短調であるなら、♭は3つのはず・・・
その三つ目となる♭「変イAs」の音は、
楽譜にはいちいち臨時記号が付けられることで
用が足されているのです。
その演奏会の時は、
まぁ、そういう記譜法がバロックの頃にはあったのかな、
という程度に思っていたのですが・・・
プログラムにも疑いなく「ハ短調」と書きましたし・・・
しかしよくよく考えてみると、
ここに「記譜法」と「音楽」における
我々が習得する「調性の常識」にとらわれない
「音楽そのものの調性」を意識することの重要性を
今日は、ふと思ったのです。
♭が2つの楽譜、
でも音楽は聴く限り・演奏する限り明らかにハ短調、
だからこれはハ短調の音楽。
こう書いてしまえば、なんとも
当たり前・自明の理のことと思えます。
(コロンブスの卵!?)
そう・・・楽譜に書かれた記号の数に関わらず、
音楽そのものは、その常識にとらわれない
本当のその曲の調性があるのかもしれない、
と思えたのです。
ゆえに、我々が習得した
「記号の数と調性の関わり」というものは、
あくまでも便宜上のものとして、その価値をしっかりと認めながらも、
しかし一方では、それにとらわれ過ぎてしまっては
本当の音楽が見えなく・聴こえなくなってしまうのではないか!?
と思わされることとなったのです。
「調性」というものがあります。
これは音楽を始める初歩の段階において習うことでしょう。
それぞれの調性は、基本的には
五線譜の冒頭にある♯(シャープ)か♭(フラット)の数によって、
その音楽が何の調性だかが分かるようになっています。
●何もなければ、ハ長調C-Durかイ短調a-moll
●♯1個なら、ト長調G-Durかホ短調e-moll
●♯2個なら、ニ長調D-Durかロ短調h-moll
●♭1個なら、ヘ長調F-Durかニ短調d-moll
●♭2個なら、変ロ長調B-Durかト短調g-moll
などなど・・・etc・・・
●♯の付く順番を「ファ♯・ド♯・ソ♯・レ♯・ラ♯・ミ♯・シ♯」と覚えたり、
●♭の付く順番は「シ♭・ミ♭・ラ♭・レ♭・ソ♭・ド♭・ファ♭」と覚えたり、
それに属する調性の主音を、
●長調の♯系だったら順番に「ド・ソ・レ・ラ・ミ・シ・ファ♯・ド♯」
●長調の♭系だったら順番に「ド・ファ・シ♭・ミ♭・ラ♭・レ♭・ソ♭」
という「完全5度」の周期として覚えてしまったり・・・
ざっと、
このような「規則正しい」ルールに則って
クラシック音楽における調性というものは出来上がっております。
(この「規則正しさ」こそは「天の摂理」に基づくもの!?
と感動を覚えなくもありませんし・・・)
これは慣れてしまうと、
色々な曲に向かい合う際に、
譜読み段階でもすぐさま、♯か♭の数によって
その調性感を把握でき、その音楽を捉えるのに
とても役に立つ知識となります。
さて、ところが・・・
今日はふと、
この、我々にとって「当たり前」と定着している知識を超えた
「音楽そのもの」を捉えるにあたって
目からうろこが落ちるような気がしたのです。
例えば、思い返せば
今までの自分の経験において、
この規則に則らない楽譜が出現することもありました。
そんなひとつは、
今年前半に演奏会で取り上げたバロックの作曲家
クヴァンツQuanz作曲の《トリオソナタ》において・・・
音楽は明らかに「ハ短調c-moll」でありながらも、
楽譜には「♭は2つ」しか付いていないのです。
普通はハ短調であるなら、♭は3つのはず・・・
その三つ目となる♭「変イAs」の音は、
楽譜にはいちいち臨時記号が付けられることで
用が足されているのです。
その演奏会の時は、
まぁ、そういう記譜法がバロックの頃にはあったのかな、
という程度に思っていたのですが・・・
プログラムにも疑いなく「ハ短調」と書きましたし・・・
しかしよくよく考えてみると、
ここに「記譜法」と「音楽」における
我々が習得する「調性の常識」にとらわれない
「音楽そのものの調性」を意識することの重要性を
今日は、ふと思ったのです。
♭が2つの楽譜、
でも音楽は聴く限り・演奏する限り明らかにハ短調、
だからこれはハ短調の音楽。
こう書いてしまえば、なんとも
当たり前・自明の理のことと思えます。
(コロンブスの卵!?)
そう・・・楽譜に書かれた記号の数に関わらず、
音楽そのものは、その常識にとらわれない
本当のその曲の調性があるのかもしれない、
と思えたのです。
ゆえに、我々が習得した
「記号の数と調性の関わり」というものは、
あくまでも便宜上のものとして、その価値をしっかりと認めながらも、
しかし一方では、それにとらわれ過ぎてしまっては
本当の音楽が見えなく・聴こえなくなってしまうのではないか!?
と思わされることとなったのです。