ベートーヴェン《ソナタ8番“悲愴”》III楽章、
今まで無意識に使用していたPedalを意識的に少なくする練習で、
余計な残響とペダルの使用によるメロディーの和音化を阻止した結果
見えてきたのは、明瞭化された「声部達の動く様」でした。
左手の伴奏はうねる波のようでもあり、
右手の単旋律はひとつの「うた」のようです。しかし、
ふと現れる「別の声」(第28小節)が、この音楽に現れる登場人物が
一人きりではないことを証明しているよう思われたのです。
ふたつの声部が話し合い、あるいは闘う・・・・
そこから湧き出たイメージは、
「生」と「死」
でした。少なくとも、今日の自分にはそう聴こえる気がしたのです。
30歳前後のまだ若いベートーヴェンが書き残した、あの有名な
『ハイリゲンシュタットの遺書』を覗いてみますと、
ベートーヴェンが、音楽家としての完全な欠落ともなりうる難聴の病に
際して、「死」を意識していたことが明らかです。
―――『ハイリゲンシュタットの遺書』より―――――――――
人恋しさに耐え切れず、その誘惑に負けたこともあった。
だが、そばに佇む人には遠くの笛の音が聞こえるのに、
私には何も聞こえない、人には羊飼いの歌声が聞こえているのに、
私にはやはり何も聞こえないとは、何と言う屈辱だろう。
こんな出来事に絶望し、もう一歩で自ら命を絶つところだった。
しかし芸術、これのみが私を思いとどまらせたのだ。
ああ、課された使命、
そのすべてを果たしてからでなければ私は死ねそうにない。
だからこそこの悲惨な人生を耐え忍んで生きてきたのだ。
――――――――――――――――――――――――――
こうしてみると、
当時のベートーヴェンの人生観に、生死の問題が彼の中を
色濃く占めていたことは、疑いの無いことと思われます。
しかもそれは自殺というかたちで・・・
(この遺書には同時に、芸術家・音楽家としてのベートーヴェンの
大きな自信と使命感も見て取ることができましょう)
以前から、この《ピアノソナタ“悲愴”》が
この「ハイリゲンシュタットの遺書」と時期が重なり、
自身の難聴となってしまった運命を呪い、そんな強い思いが
音楽となって現れた作品なのか、という考えはありました。
今日の練習によっていよいよ、
楽曲における具体的な事象、すなわち作曲されている音たちと
このイメージとがいよいよ密接に結びついてきたような気がしたのです。
「生と死の葛藤」
このイメージをそのままI楽章に照らし合わせてみることも出来そうです。
「Grave」の序奏が終わり「Allegro di molto e con brio」に入って、
音楽はいよいよ鬼気迫る様相となっていきます。
左手のトレモロに乗って、右手の2声が細かな和声の交代と
シンコペーションの要素を加え、それが鬼気迫るものを
聴くものにも、弾くものにも感じさせるのでしょう。
「2声」!?
上声部を「生」とし、下の声部を「死」と考えてみる・・・
細かく同時に動く切迫した2声は、
「生」と「死」が互角に渡り合って闘っているかのよう・・・
こうしたイメージが、このAllegro冒頭の感覚を、よりリアルに、
より切迫したものに昇華させることができるような気がします。
この2声の「生と死」の解釈は、第2テーマにおいて
より一層分かり易く、イメージを捉えることができそうです。
右手が左手の伴奏を飛び越え、低音の「死」が不気味に語りかけ、
すぐさま高音部の「生」がそれを振り払うように答える・・・
自らの命を絶とうとする人間の心境とは、いかなるものなのでしょう、
言葉にするのも恐ろしいほどです・・・
もしかすると、この《悲愴ソナタ》は、こんな想像を絶する我々人間の
「生と死」の境地を垣間見させる音楽なのかもしれない・・・
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今まで無意識に使用していたPedalを意識的に少なくする練習で、
余計な残響とペダルの使用によるメロディーの和音化を阻止した結果
見えてきたのは、明瞭化された「声部達の動く様」でした。
左手の伴奏はうねる波のようでもあり、
右手の単旋律はひとつの「うた」のようです。しかし、
ふと現れる「別の声」(第28小節)が、この音楽に現れる登場人物が
一人きりではないことを証明しているよう思われたのです。
ふたつの声部が話し合い、あるいは闘う・・・・
そこから湧き出たイメージは、
「生」と「死」
でした。少なくとも、今日の自分にはそう聴こえる気がしたのです。
30歳前後のまだ若いベートーヴェンが書き残した、あの有名な
『ハイリゲンシュタットの遺書』を覗いてみますと、
ベートーヴェンが、音楽家としての完全な欠落ともなりうる難聴の病に
際して、「死」を意識していたことが明らかです。
―――『ハイリゲンシュタットの遺書』より―――――――――
人恋しさに耐え切れず、その誘惑に負けたこともあった。
だが、そばに佇む人には遠くの笛の音が聞こえるのに、
私には何も聞こえない、人には羊飼いの歌声が聞こえているのに、
私にはやはり何も聞こえないとは、何と言う屈辱だろう。
こんな出来事に絶望し、もう一歩で自ら命を絶つところだった。
しかし芸術、これのみが私を思いとどまらせたのだ。
ああ、課された使命、
そのすべてを果たしてからでなければ私は死ねそうにない。
だからこそこの悲惨な人生を耐え忍んで生きてきたのだ。
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こうしてみると、
当時のベートーヴェンの人生観に、生死の問題が彼の中を
色濃く占めていたことは、疑いの無いことと思われます。
しかもそれは自殺というかたちで・・・
(この遺書には同時に、芸術家・音楽家としてのベートーヴェンの
大きな自信と使命感も見て取ることができましょう)
以前から、この《ピアノソナタ“悲愴”》が
この「ハイリゲンシュタットの遺書」と時期が重なり、
自身の難聴となってしまった運命を呪い、そんな強い思いが
音楽となって現れた作品なのか、という考えはありました。
今日の練習によっていよいよ、
楽曲における具体的な事象、すなわち作曲されている音たちと
このイメージとがいよいよ密接に結びついてきたような気がしたのです。
「生と死の葛藤」
このイメージをそのままI楽章に照らし合わせてみることも出来そうです。
「Grave」の序奏が終わり「Allegro di molto e con brio」に入って、
音楽はいよいよ鬼気迫る様相となっていきます。
左手のトレモロに乗って、右手の2声が細かな和声の交代と
シンコペーションの要素を加え、それが鬼気迫るものを
聴くものにも、弾くものにも感じさせるのでしょう。
「2声」!?
上声部を「生」とし、下の声部を「死」と考えてみる・・・
細かく同時に動く切迫した2声は、
「生」と「死」が互角に渡り合って闘っているかのよう・・・
こうしたイメージが、このAllegro冒頭の感覚を、よりリアルに、
より切迫したものに昇華させることができるような気がします。
この2声の「生と死」の解釈は、第2テーマにおいて
より一層分かり易く、イメージを捉えることができそうです。
右手が左手の伴奏を飛び越え、低音の「死」が不気味に語りかけ、
すぐさま高音部の「生」がそれを振り払うように答える・・・
自らの命を絶とうとする人間の心境とは、いかなるものなのでしょう、
言葉にするのも恐ろしいほどです・・・
もしかすると、この《悲愴ソナタ》は、こんな想像を絶する我々人間の
「生と死」の境地を垣間見させる音楽なのかもしれない・・・
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