楽譜とにらめっこをしていて、演奏不可能な指示に出会う・・・
そういうことがありませんか?
例えば、
ピアノという楽器の特性上、一度出してしまった音を
再び音量を増してクレッシェンドさせることは不可能です。
ところが、
ピアノの作品において、例えば、長い音符上に
クレッシェンドの指示があることが、あるんです。
しかも、れっきとしたピアノストでもある作曲家の作品において。
ぶっちゃけて言ってしまえば、ショパン。
例を挙げますと、
ショパン《ノクターン16番op.55-2 Es-Dur》の
最後の和音。
譜例を見られればご覧の通り、
「f」の一つ目の和音に引き続き、二つ目の和音は
付点全音符+次の小節の付点四分音符までタイがかかった
長いひとつの和音となります。そこで問題となるのが、
上段、下段に書かれた和音の間に「 < (クレッシェンド)」
が書かれているのが見えますでしょうか?
「・・・ショパン先生、あなた、ピアニストでしょ!?
この和音、ピアノで一度弾いてしまったら、もうそれ以上は
クレッシェンドできませんよ!?」
って言いたくなる、演奏不可能と思われるクレッシェンド。
では、間違って書いたのか?
でなければ、なんのために書いたのか?
大作曲家ショパンの記譜を軽く見てはならなさそうです・・・
彼は死ぬ直前に言っています「自分の作品達で出版されたものは
出来る限りで完璧な形で世に出したもの、そうでないものは
処分してほしい。自分の意図しない作品が自分の名で
世に渡ることは望ましくない」と・・・
(そういう意味で、私個人は
ショパンの友人フォンタナがショパンの死後に手がけた
作品の出版に対して、大いに疑問を持っています。
人気曲《幻想即興曲》もその中に含まれてしまうのですが・・・
しかし、それを否定することはナンセンスとも思うので、
ショパンの遺言がそうであったことをせめて我々はよく知っておいて、
これらの作品と向き合うことが、作曲家ショパンに対する
敬意を表すことになるのかもしれません)
そんな作曲家・大音楽家・大芸術家ショパンが書いたものを
そう簡単に「間違い」「気の迷い」と読むのは浅はかでしょう。
彼がこのクレッシェンドを書いたのは
何か理由があるから。
では、
なぜピアノという楽器で演奏不可能なクレッシェンドを
ショパンは書いたのでしょうか?
今の自分の考えられる範囲では、
これを、
ただの「音量としてのクレッシェンド」ととらえず、
演奏する者にとっての、あるいは音楽そのものにとっての
「内的なクレッシェンド」であるという考えにたどり着きます。
ピアノという楽器の性質上、一度弾いてしまった音は
それ以上クレッシェンドしない、しかし、弾いた音は
音楽そのものの欲するまま、さらに大きく、クレッシェンドしていく、
ショパンは、
これを望んで、あるいはこれを知っていて、
彼の胸奥にある音楽がピアノという楽器の制限を越えて
高々とクレッシェンドしていくことを知っていて、
楽譜にこのようなクレッシェンドの指示を
書き込んだのではないかのと・・・
よくよく楽譜を見てみますと、
クレッシェンドの指示「 < 」の始まりは、
ふたつ目の和音の前から始まっています。
この微妙なクレッシェンドの始まりを考慮すると、
この最後のふたつの和音は音量的にも違いが現れるでしょうし、
それは大きな音楽的効果をもたらすのではないでしょうか。
それにしても、
二つ目の和音を弾いてしまった後に、
明らかに意図的に長く引き続き書かれたクレッシェンドは、
やはり音量としての操作は不可能。
ピアノという楽器の限界を超えていると言えましょう。
音楽の演奏は、ただ音を弾いて済むものではない、
ソウル(魂)を奏でるのだ、と!?
楽器は媒体に過ぎない、作曲家の胸奥にあった音楽の姿が
楽譜として作品となって形を成し、それが楽器の制限を越えて
その原始的な音楽あるべき姿にありたいと願っていると信じるのであれば、
このような解釈が、ただの空論で終わることはないと思いたいところです。
P.S.
この《ノクターン16番op.55-2》は、
実にも美しい、後期ショパンの草分けということが出来ましょう。
多少、取っ付きにくい感じが無くもない・・・それは、
ポリフォニーという手法をさらに深く掘り下げた
後期ショパンの作曲に対する姿勢と、こうした仕事における
彼の意思の強さ、強い精神の力を持って自然であろうとする
音楽への挑戦の現われと見て取る、聴いて取ることが
できるようでもあります。
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そういうことがありませんか?
例えば、
ピアノという楽器の特性上、一度出してしまった音を
再び音量を増してクレッシェンドさせることは不可能です。
ところが、
ピアノの作品において、例えば、長い音符上に
クレッシェンドの指示があることが、あるんです。
しかも、れっきとしたピアノストでもある作曲家の作品において。
ぶっちゃけて言ってしまえば、ショパン。
例を挙げますと、
ショパン《ノクターン16番op.55-2 Es-Dur》の
最後の和音。
譜例を見られればご覧の通り、
「f」の一つ目の和音に引き続き、二つ目の和音は
付点全音符+次の小節の付点四分音符までタイがかかった
長いひとつの和音となります。そこで問題となるのが、
上段、下段に書かれた和音の間に「 < (クレッシェンド)」
が書かれているのが見えますでしょうか?
「・・・ショパン先生、あなた、ピアニストでしょ!?
この和音、ピアノで一度弾いてしまったら、もうそれ以上は
クレッシェンドできませんよ!?」
って言いたくなる、演奏不可能と思われるクレッシェンド。
では、間違って書いたのか?
でなければ、なんのために書いたのか?
大作曲家ショパンの記譜を軽く見てはならなさそうです・・・
彼は死ぬ直前に言っています「自分の作品達で出版されたものは
出来る限りで完璧な形で世に出したもの、そうでないものは
処分してほしい。自分の意図しない作品が自分の名で
世に渡ることは望ましくない」と・・・
(そういう意味で、私個人は
ショパンの友人フォンタナがショパンの死後に手がけた
作品の出版に対して、大いに疑問を持っています。
人気曲《幻想即興曲》もその中に含まれてしまうのですが・・・
しかし、それを否定することはナンセンスとも思うので、
ショパンの遺言がそうであったことをせめて我々はよく知っておいて、
これらの作品と向き合うことが、作曲家ショパンに対する
敬意を表すことになるのかもしれません)
そんな作曲家・大音楽家・大芸術家ショパンが書いたものを
そう簡単に「間違い」「気の迷い」と読むのは浅はかでしょう。
彼がこのクレッシェンドを書いたのは
何か理由があるから。
では、
なぜピアノという楽器で演奏不可能なクレッシェンドを
ショパンは書いたのでしょうか?
今の自分の考えられる範囲では、
これを、
ただの「音量としてのクレッシェンド」ととらえず、
演奏する者にとっての、あるいは音楽そのものにとっての
「内的なクレッシェンド」であるという考えにたどり着きます。
ピアノという楽器の性質上、一度弾いてしまった音は
それ以上クレッシェンドしない、しかし、弾いた音は
音楽そのものの欲するまま、さらに大きく、クレッシェンドしていく、
ショパンは、
これを望んで、あるいはこれを知っていて、
彼の胸奥にある音楽がピアノという楽器の制限を越えて
高々とクレッシェンドしていくことを知っていて、
楽譜にこのようなクレッシェンドの指示を
書き込んだのではないかのと・・・
よくよく楽譜を見てみますと、
クレッシェンドの指示「 < 」の始まりは、
ふたつ目の和音の前から始まっています。
この微妙なクレッシェンドの始まりを考慮すると、
この最後のふたつの和音は音量的にも違いが現れるでしょうし、
それは大きな音楽的効果をもたらすのではないでしょうか。
それにしても、
二つ目の和音を弾いてしまった後に、
明らかに意図的に長く引き続き書かれたクレッシェンドは、
やはり音量としての操作は不可能。
ピアノという楽器の限界を超えていると言えましょう。
音楽の演奏は、ただ音を弾いて済むものではない、
ソウル(魂)を奏でるのだ、と!?
楽器は媒体に過ぎない、作曲家の胸奥にあった音楽の姿が
楽譜として作品となって形を成し、それが楽器の制限を越えて
その原始的な音楽あるべき姿にありたいと願っていると信じるのであれば、
このような解釈が、ただの空論で終わることはないと思いたいところです。
P.S.
この《ノクターン16番op.55-2》は、
実にも美しい、後期ショパンの草分けということが出来ましょう。
多少、取っ付きにくい感じが無くもない・・・それは、
ポリフォニーという手法をさらに深く掘り下げた
後期ショパンの作曲に対する姿勢と、こうした仕事における
彼の意思の強さ、強い精神の力を持って自然であろうとする
音楽への挑戦の現われと見て取る、聴いて取ることが
できるようでもあります。
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