音楽家ピアニスト瀬川玄「ひたすら音楽」

♪クラシック音楽の伝統を受け継ぐ真の音楽芸術家を目指して活動しています♪ 「YouTubeクラシック音楽道場」も更新中♪

◆音楽の役割・存在意義 ~ 福沢諭吉『学問のすすめ』に刺激されて

2009年04月04日 | 音楽(一般)
福沢諭吉著『学問のすすめ(現代語訳)』
という本を手にとっております。

「現代語訳」というところに惹かれて買ったのですが、
実際、著者の福沢諭吉が
「小難しい漢文による文体ではなく、
分かりやすい言葉によるものがよい」
というような事をおっしゃられている事を考えてみれば、
21世紀の今日において、
今日の人々に分かりやすい「現代語訳」というものは、
この理にかなって、著者も納得の代物と言えるのではないでしょうか!?


それはともかく・・・

まだ冒頭の一章を読んだだけ、そんな状態で
この書物について言及するのは危うくもあるのかもしれませんが、
それにしても、
今私が、この本から
大きな刺激を受けていることは事実であって、
そうでなければ、久々のブログ更新(・・・恥ずかしながら)
の筆は進まず、それだけ「面白い」本なのだということは
確かなことなのでしょう。(面白いということは花である、といったのは
世阿弥です。ゆえに『学問のすすめ』には花がある、ということになりましょうか)



この本を紐解き始めてみてさっそく気になりましたのは、
著者・福沢諭吉は、
「天の道理」に基づいて、人生を生き、
人それぞれに仕事を・職を成すことがよいこと
とおっしゃられているようです。


では、「天の道理」とは?


これを言葉にし説明するのは非常に難しいことです。
(若輩者の私にとってはもちろんのこと!!)

しかし、
少し思い当たるところがあって、
この文章を今書いているのです。


私の携わっている
「西洋クラシック音楽」という芸術。


これは、
「天の道理」なるものを、
聴覚を通して体感できる効力を持った
ひとつの手段であるように思ったのです。


音楽とは、音を使って成されるもの。
その「音」とは、
森羅万象のひとつの要素でもある自然のものです。


あらゆる音には「倍音」が含まれているそうです。
その中には、
ピタゴラス音律によって数千年も前に解き明かされた

●1:2=オクターブ
●2:3=完全5度
●3:4=完全4度

という、「数値」と「音」との混じり気のない
純粋な現象の真実がここに存在することを、
我々は今日、知ることができます。

(このことは、よくよく考えてみて、よくよく感じてみると、
すさまじい感動を得られることかもしれないと、今の私は
思い・感じられるように徐々になってきました)


クラシック音楽は、この原理より発展し、
数多の楽曲として今日に伝わっているものと言えましょう。
この原理とは、
クラシック音楽において存在するハーモニーの種類、

●トニカ(主調)
●ドミナント(属調)
●サブドミナント(下属調)

という、基本的には「たった三つ」の和声の種類に
音楽をまとめることができます。
(この和声から脱却しようと試みる20世紀の音楽は
もちろん「この原理」には含まれません。だって「脱却」しようと
しているのだから。「脱却」しきれないものも沢山ありますし・・・
そして、これらの試行錯誤の音楽は、決して無価値であったという
ことはないでしょう。この流れがあってこそ、
今日の我々は「和声」の音楽の魅力を再確認できる
チャンスを得たといえるのかもしれませんから・・・)


クラシック音楽は、基本的には、心地よいものです。
それは、長い年月を通して、
ヨーロッパという地球上の一部分において昇華された
「音」を通しての「天の道理」の戯れを、
多くの素晴らしい音楽家・作曲家達が追い求めたものの
結果であるからと、今日の自分には思えるのです。

であるからこそ、
明治のころに初めて日本へ輸入されたクラシック音楽を
我々日本人・アジア人が愉しむことは、
この音楽が「天の道理」に沿ったものであるならば、
大いに出来て当然のことであり、現に、
クラシック音楽を愉しんでいる人々は、
日本に限らず、または原産地のヨーロッパにも限らず、
世界中に大勢います。

なぜなら、
この音楽、クラシック音楽は
「天の道理」に適ったものであるから。

そう思ってみると、
この音楽の面白さは、人種や時代の壁を越えて
価値の高い、人類の宝物のひとつと
言うことができるのではないでしょうか。


そして、
福沢諭吉のいう
「天の道理にそって人がよく生きる」ことがよいことなのなら、
クラシック音楽という芸術のひとつのジャンルは、
この「天の道理」の「ひとつ」を実感し、
よりよく生きる事への役割・効力があるとするならば、
音楽は単なる娯楽として卑しまれることの決してない
立派な存在意義のあるひとつの事柄と言うことが
出来るのではないでしょうか。


ーーーーーーーーーーーーーーー
追伸:

かじりかけの大書「学問のすすめ」について言及することは
本当に危ういことなのだとは思いつつ、忘れてしまう前に
その新鮮な初印象を書き記してみたく思います。

この書の冒頭では、
「和歌」「詩」「漢学者」「国学者」は実用性がなく二の次でよい、
というような内容の文章があり(おそらくは私の携わっている「音楽」もこの内に含まれるでしょう)
この文章は、ここ一世紀くらいに渡っての日本人の心に
実に大きな足跡を残してしまったのではないかと思われました・・・


「音楽家になりたい」という子供・若者に向かって
「音楽なんかやったって食べていけない、それを職にすることは許しません」

と言われるセリフは、
誰しも耳にした事のある文句ではないでしょうか?

もちろん、
衣食住に直接の関わりのない「音楽家」という仕事は、
なんとも不安定なものです・・・しかし、
その存在意義は皆無ではないことは、
真心ある「人」であれば、少なからず
理解できることではないでしょうか。
(上記の苦心の拙文が、そのお役にたってくれるのであれば
ブログを書いていてこれほど嬉しいことはないのですが・・・)


しかし、
『学問のすすめ』の冒頭の数ページにおいて、
「人の身分の差」および
「役に立たない学問」と書いて公にしてしまったことは、
あまりにも大きな爪あとを、この本の出版以降に生きる
日本の人々の心に残してしまったのではないでしょうか?


世界有数の経済大国となった日本、
その日本人達の21世紀の今日の姿、
・・・心の疲弊・・・(もちろん、心が疲れるのは今日に限ったことでもないのですけれど・・・)
我々は、こんな時だからこそ今一度、
「人間」としての健全な「生きる」ことについて
考えてみる必要があるのではないでしょうか?


追伸2:

しかし、こんな批判があったとしても、
『学問のすすめ』が、今日になお通用する「普遍性」の
多分に盛り込まれた内容の深いものであることは疑いなく、
このような微々たる批判によってその存在意義が揺らぐような
軟なものではないことも確かでしょう。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ◆されど次はあり、3月22日、... | トップ | ◆ショパンの肺結核 ~ 《葬送... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。