なんということ!・・・レパートリーとして何回となく演奏してきたドビュッシー《月の光》が、バッハ的な音楽であったよう、衝撃的な手応えをおぼえました・・・冒頭、メロディがタイ音符で連なり拍頭で不協和音となる手法は、バロックのそれとなんら変わりはないようです!
ドビュッシーの斬新な音楽は、新しいようでありながらも、クラシック音楽の歴史に脈々と受け継がれる古い手法との関わりを断ってはいないということ!? クラシック音楽の魅力の普遍性の根源がある!? 名曲《月の光》がそれを証明してくれる!?
ドビュッシー《月の光》、人が心震わせ切なく感じるようなあの美しさには、楽理的な裏付けが明確にあったことに、今更ながら気付きました・・・「今更」と、また愕然ともするのですが、気付けた喜びもあり。複雑な心境の今日この頃です・・・
楽譜に計画的に設計された不協和音、それを今、実際の音にして、それによく耳を傾けることで、設計者・作曲家が聴いていたであろう同じ音の魅力を、味わうことが出来る。!? 数百年の時を越えて、人と人が結ばれる、音楽を通して♪ そんな感覚を、ふと得ました
!? 不協和音の勉強に焦点をあて始めたら、ついにラヴェルの音楽に、気分ではなく、真に手応えをもって向き合えるようになれるかも!? あの高貴な魅力に満ちた難曲《クープランの墓》を紐解く鍵がここに!?
ラヴェル《クープランの墓》・・・2011年3月に震災が起こり、数万人の方々が亡くなった・・・あまりに痛ましく、私は数ヵ月後にこの曲をリサイタルで取り上げました。今一度、この曲に向かい合いたい。気分だけではなく、音としてもっと。そして常に追悼の意を。
私は東北の人間ではなく、親戚がその方面にいることもなく、震災で家族を亡くすことはありませんでした。しかし東京に居ながらも大きな揺れを体験した一日本人として、犠牲者の方々に思いを寄せることが本気であります。そして音楽を通して、思い出すこと少なからずです。忘れはしません。
《クープランの墓》は、ドイツでの卒試で弾きたかった曲でした。しかし師匠はこれを却下しました・・・「この曲には痛みが伴わねばならない」それはすなわち、私がその痛みをまだわかっていないと先生が思われたからでしょう・・・卒業して年月が経ち、私はこの痛みを少しわかってきた?
《クープランの墓》に伴う痛みとは、第一次世界大戦の悲劇、凄まじい数の犠牲者に関わる音楽だからです。師匠は第二次大戦の体験者・・・この音楽における「痛み」とは戦争のそれ!?と思ってきましたが、それだけではなさそう。「音そのものが痛い」これを会得せねばならなかった!?
3年前にこの曲を、心に痛みを抱えながら懸命に演奏しました・・・音そのものの痛みをまだよく理解できていなかったけれど、なんとなしには感じていた。今一度、痛みの正体をわかろうとそれに向き合ったら、今度はどうなるのか・・・
《クープランの墓》の音の痛みがより強く切なく感じられる理由は、数々の不協和音の間に、澄んだ美しい協和音が時おり挟み込まれているから? そのせいか、不協和音はより一層切なく心に痛く沁みるよう・・・ 心憎いばかりの音の技法!おのれラヴェルめ!
「痛みを感じなければいけない」と言われて、義務的に!?痛みを呼び起こそうとしても、それは本当に痛みを感じていることにはならない・・・ 痛みの理由があり、実際にそれを痛いと感じることが必須。不協和音の痛みを会得せんと、これからも日々音楽に向かい合いたいです。
くそ~くそ~くそ~!! 音楽そのものの魅力に向かい合っていたら、キャリアアップなんて本当にどうでもよい問題だ!と思ってしまった・・・ もちろん生活できないと困るのですが、音楽家の仕事として大事なことは・・・ではないでしょうか?
ラヴェルとドビュッシーの違い。ラヴェルは音そのものを第一義としてそこから印象・イメージが出てくるよう。ドビュッシーの場合は、まずはイメージがあって、それに合致する音をつけていくよう、そんな気がしました。敢えて言うならラヴェルは知性主体、ドビュッシーは感性主体!?
ラヴェル《亡き王女のためのパヴァーヌ》に向き合ってみると、なんとなんと・・・初っぱなから痛みをともなう音の連続だこと!これは実に切ない音逹・・・今までよく知らなかったのですが、あらためて、切なく感じていたのは間違ってはいなかったと確認できそうです
ラヴェルを上手に弾く難しさとは、奏者の主観的な感情を込めようと思っても、音の構造をよく分かっていないと、その真の音楽的効果は現れないのかもしれない!?「まず音ありき」のようにラヴェルがよく言われるのはこういうこと!?
ドビュッシーの方が弾きやすい!?ような感覚のある人は、楽曲が、奏者の情感を優先してもそれに応えてくれるような性質をもっているから!? ドビュッシー自身が、感じていたことを音に現そうとした作曲過程があるならば、奏者の情感が反映されやすいのも然り!?
とはいえ、決して誤解してはならないのは、ドビュッシーがもしも感性主体のように作曲したとしても、その作業の過程においては、高度に知的で繊細、パーフェクトな音使いをしていることを見失ってはいけない!奏者は勝手な感情に流されず、それが楽曲から外れていないかは注意すべし?
なんだか分かってきそうなのですが、ラヴェルの不協和音の作り方は、「7」や「9」の音をぶつけるのがお得意なよう。ドビュッシーは「6」を使うのを好んだよう、思われます。ここにも両作曲家の特徴の違いが見られる!?