「音楽家を目指すのに絶対音感は必要かどうか?」
という問いは、
よく議論される問題です。
「絶対音感」とはどのような能力のことかというと、
ある音が「固定ド」として、なんの音であるかを
判断できる能力のことをいうのだと思います。
つまり、例えば、
今日の音の調律の基本でいうと、
中音442Hzの「ラ」の音を、なんの頼りも無しに、自身の耳のみで聴いて
「ラ」だ、
と判断できる能力のことをいいましょう。
ちなみに、
僕自身は「なんちゃって絶対音感」は持っております。
「なんちゃって」と前置詞が付きます理由は、
なぜなら、
時に半音ほどずれてその音を判断してしまう場合があり、
いまいち、その音がなんであるか、
自信が持てないことが時にあるからです・・・
一度疑いだすと、
自分の聴いている音がなんだか分からなくなって混乱し、
自信が持てなくなってしまうのです・・・しかし、
ひとたびキッカケを得て正しい音感を取り戻せたなら、
後は大丈夫に戻れるのですが・・・
という訳で、完全ではない、中途半端な絶対音感を持っていると
自分の場合はいうことができるようです。
ところで、
つい先日、ある演奏会にて、
ちょっとした和声感のある近代音楽を聴いていた時、
時々現れる澄み切った混じりけの無い和音が出てくるたびに、
例えば、
「あぁ、これはキレイな変ホ長調Es-Durの和音だ!!」
「おぉ、今度はハ長調C-Durか!?」
といった具合に、
初めて聴くその音楽を愉しんでいる自分がいることに
気づいたのでした・・・
そこで、ふと、思ったのです。
あれ、もしかすると、
●絶対音感を持っていると、
その目の前の音楽の「調性」を聴いて、それを
愉しむことができるのに有用なのではないだろうか!?と。
上記の例にしました「ハ長調C-Dur」や「変ホ長調」といった調性は、
クラシック音楽の世界において、
それぞれに性格・意味・特徴を有していると言ってもよいものです。
「ハ長調C-Dur」であれば、例えば、
ベートーヴェンの有名な《交響曲第5番op.67“運命”》の終楽章は、
明るく、爽やかに、力強く、運命の勝利と力を思わせるハ長調の雄雄しい音楽です!!
そして、ベートーヴェン最後のピアノソナタ《op.111》の終楽章では、
天へと昇華する魂のゆく先の世界を案じさせるような平安の響きが想起されます・・・
モーツァルトの《キラキラ星変奏曲》の簡素で軽やかな世界や、
《交響曲“ジュピター”》などの至高の音楽芸術の極致のような曲もあり、
これらの音楽は、
シャープやフラットなどの臨時記号の無いこの調性感の特色が
よく現れていると思われます。
そういえば、今ふと思い出したのですが、
以前、ワグナーの楽劇「タンホイザー」を聴いていたとき、
「神」だったか「光」だったか「剣」だったか・・・
定かではなくちゃんとは覚えていないのですが、
そのような、何か輝かしい楽劇のストーリーの展開において、
音楽が高らかに「ハ長調C-Dur」が鳴り響いていたのが聴こえてきて、
思わず笑みがこぼれたことがありました。まさに、
「こてこてのC-Dur」
私はまだワーグナーの音楽を良くは知らないのですが、
もしかすると、クラシック音楽における調性感をも駆使して
長大な楽劇に多くのメッセージが詰め込まれるという手法が
使われているのではないだろうか?と、想像されました。
もう一つ、調性を挙げてみますと、
「変ホ長調Es-Dur」
といえば、その性格は「英雄的」と思わされます。
その理由は、Es-Durの記念碑的作品である
ベートーヴェン《交響曲第3番“英雄”》と呼ばれるEs-Durのこの音楽が
クラシック音楽の世界に残した足跡が大きいからと推察されます。
もちろん、「フラット3つ」を有した
柔らか味のあるゆったりとした感覚のEs-Durの音楽もありますが。
このように、
上に挙げた調性の二つの例がありますよう、さらには
その他、長短合わせて24つある調性には、
それぞれに、それ相応の特性があると考えてもよさそうです。
(全てのクラシック音楽を、無理やり当てその調性特有の特性として
あてはめる必要もないことも注記の必要ありますが)
そこで、
クラシック音楽における「調性感」というものをいくらか知っていて、
実際に音楽を聴きながら、その音楽が、その時、
いったいどのような音で鳴っていて、
それが、どのよう調性であって、
そこから、何がしかの性格や雰囲気・あるいは世界観を
見出すことが出来るとしたら、これは音楽を聴く上で、
楽しさと充実度倍増の成果と言えるのではないでしょうか?
つまり、まとめてみますと、
●絶対音感があって、なおかつ
●調性感に関することを知っていたら、
目の前にある音楽を聴きながら、
リアルタイムでその調性感をも愉しむことが出来るという
特権にありつけるのではないだろうか、
という
ひとつの結論に至ったように思い、
ここに書き記してみようと試みたのでありました。
という問いは、
よく議論される問題です。
「絶対音感」とはどのような能力のことかというと、
ある音が「固定ド」として、なんの音であるかを
判断できる能力のことをいうのだと思います。
つまり、例えば、
今日の音の調律の基本でいうと、
中音442Hzの「ラ」の音を、なんの頼りも無しに、自身の耳のみで聴いて
「ラ」だ、
と判断できる能力のことをいいましょう。
ちなみに、
僕自身は「なんちゃって絶対音感」は持っております。
「なんちゃって」と前置詞が付きます理由は、
なぜなら、
時に半音ほどずれてその音を判断してしまう場合があり、
いまいち、その音がなんであるか、
自信が持てないことが時にあるからです・・・
一度疑いだすと、
自分の聴いている音がなんだか分からなくなって混乱し、
自信が持てなくなってしまうのです・・・しかし、
ひとたびキッカケを得て正しい音感を取り戻せたなら、
後は大丈夫に戻れるのですが・・・
という訳で、完全ではない、中途半端な絶対音感を持っていると
自分の場合はいうことができるようです。
ところで、
つい先日、ある演奏会にて、
ちょっとした和声感のある近代音楽を聴いていた時、
時々現れる澄み切った混じりけの無い和音が出てくるたびに、
例えば、
「あぁ、これはキレイな変ホ長調Es-Durの和音だ!!」
「おぉ、今度はハ長調C-Durか!?」
といった具合に、
初めて聴くその音楽を愉しんでいる自分がいることに
気づいたのでした・・・
そこで、ふと、思ったのです。
あれ、もしかすると、
●絶対音感を持っていると、
その目の前の音楽の「調性」を聴いて、それを
愉しむことができるのに有用なのではないだろうか!?と。
上記の例にしました「ハ長調C-Dur」や「変ホ長調」といった調性は、
クラシック音楽の世界において、
それぞれに性格・意味・特徴を有していると言ってもよいものです。
「ハ長調C-Dur」であれば、例えば、
ベートーヴェンの有名な《交響曲第5番op.67“運命”》の終楽章は、
明るく、爽やかに、力強く、運命の勝利と力を思わせるハ長調の雄雄しい音楽です!!
そして、ベートーヴェン最後のピアノソナタ《op.111》の終楽章では、
天へと昇華する魂のゆく先の世界を案じさせるような平安の響きが想起されます・・・
モーツァルトの《キラキラ星変奏曲》の簡素で軽やかな世界や、
《交響曲“ジュピター”》などの至高の音楽芸術の極致のような曲もあり、
これらの音楽は、
シャープやフラットなどの臨時記号の無いこの調性感の特色が
よく現れていると思われます。
そういえば、今ふと思い出したのですが、
以前、ワグナーの楽劇「タンホイザー」を聴いていたとき、
「神」だったか「光」だったか「剣」だったか・・・
定かではなくちゃんとは覚えていないのですが、
そのような、何か輝かしい楽劇のストーリーの展開において、
音楽が高らかに「ハ長調C-Dur」が鳴り響いていたのが聴こえてきて、
思わず笑みがこぼれたことがありました。まさに、
「こてこてのC-Dur」
私はまだワーグナーの音楽を良くは知らないのですが、
もしかすると、クラシック音楽における調性感をも駆使して
長大な楽劇に多くのメッセージが詰め込まれるという手法が
使われているのではないだろうか?と、想像されました。
もう一つ、調性を挙げてみますと、
「変ホ長調Es-Dur」
といえば、その性格は「英雄的」と思わされます。
その理由は、Es-Durの記念碑的作品である
ベートーヴェン《交響曲第3番“英雄”》と呼ばれるEs-Durのこの音楽が
クラシック音楽の世界に残した足跡が大きいからと推察されます。
もちろん、「フラット3つ」を有した
柔らか味のあるゆったりとした感覚のEs-Durの音楽もありますが。
このように、
上に挙げた調性の二つの例がありますよう、さらには
その他、長短合わせて24つある調性には、
それぞれに、それ相応の特性があると考えてもよさそうです。
(全てのクラシック音楽を、無理やり当てその調性特有の特性として
あてはめる必要もないことも注記の必要ありますが)
そこで、
クラシック音楽における「調性感」というものをいくらか知っていて、
実際に音楽を聴きながら、その音楽が、その時、
いったいどのような音で鳴っていて、
それが、どのよう調性であって、
そこから、何がしかの性格や雰囲気・あるいは世界観を
見出すことが出来るとしたら、これは音楽を聴く上で、
楽しさと充実度倍増の成果と言えるのではないでしょうか?
つまり、まとめてみますと、
●絶対音感があって、なおかつ
●調性感に関することを知っていたら、
目の前にある音楽を聴きながら、
リアルタイムでその調性感をも愉しむことが出来るという
特権にありつけるのではないだろうか、
という
ひとつの結論に至ったように思い、
ここに書き記してみようと試みたのでありました。