善意の音楽・・・ いい音楽をしようとする人と、その時に現れている音楽は「善」以外の何者でもない!? プラトン著『国家(下)』を読みながら、期待に膨らみ!考え中・・・
間違いのない(間違いと気付かれない!?)音楽がそこに流れている時、そこは善意の時空間が成立することに成功している、といえる!? 間違いのない良い音楽と思われるものに触れている時、人は幸福になれる!?
音楽における間違い・正しさとは?・・・究極的には、音楽の正しさを完全に網羅して演奏するということは現実には有り得ないでしょう。他の事柄も然り。しかし!諦めてしまってはいけない!せめて分かった正しさ・真実の欠片があるなら、これを大事に生きることは、有意義なはず
クラシック音楽に日々向き合う生活をしながら、音楽における「正しさ」というものが少なからざる有るとこを実感する今日この頃です。これは知性のみによる頭でっかちではなく!正しさに触れると、感情が喜ぶのも感じられる気がしています。知を喜ぶ人の性がある!?と。
たとえ音楽に関する知識が少なくても、音楽を聞きながら「いいな、きれいだな」と感じる時、人は実はその音楽の「正しさ」を感知して楽しんでいるのではないだろうか!?・・・なぞと哲学ぶって(自爆)考えてみました・・・音楽における正しさに興味ある今日この頃です
今日の風潮は、個人主義の偏重した時代性があるよう、数年前から危惧しております・・・ 個人を否定するつもりはありません!しかし「自分がいいと思ったら、いい」のような考え方が偏り過ぎると・・・本当によいことと、本当は悪いこと、その区別が無くなっては危険と思われ・・・
クラシック音楽をやりながら「自分がいいと感じるからこうやる」が先行してしまうと、その個人の力量が丸裸となり、実力が見事ならよいのですが、しかしその境地に到るのは至難の業・・・個性以前に、魅力たっぷりの音楽ができる可能性は、楽譜を前にする全ての人に与えられている、と私は考えています
個性に偏重しない音楽! そのヒントが「正しい音楽」だと思っています。正しく音楽しようとする心掛け!これ、愉しいものと思われます。義務的な正しさの追求は、苦痛となってしまうかも・・・しかし自主的に正しさを追求する道に入ると・・・愉しい!? 音楽の勉強はたのしいです!
「正しい指使い」とは、楽譜に書かれた音価、そのレガート(つながり)が物理的に可能である指使いのこと、と考えられましょうか。個人的な弾きやすさを追求する以前に、正しい指使いは、あるはず、です。この指使いが見付かると、弾くのが楽しくなる!? 音楽の勉強はたのしい!(←また言ってる笑)
見付けた正しい指使いが、まだまだなかなか上手く出来ず弾きにくいこともあるかも・・・しかしその際には、焦りは禁物で!落ち着いて、自分の指で正しさが実現できることを確認し、出来たら、それを体得するよう間違えず繰返し練習する、といいと思います。それでも出来ない時は!
見付けた正しい指使いは、実は「正しいと思われた指使い」であって、答えは他にあるのかも・・・と、考え直すことも必要かもしれません。見付けるのを間違うことも、人生あるでしょう・・・しかしだからといって!正しさの追求を諦めてしまっては、そこまでとなってしまうので!諦めずに!
「諦めない」という言葉からは、ワールドカップ優勝の快挙を成し遂げた「なでしこジャパン」が思い出されましょうか!