自分で確認していない噂で蘊蓄するのは危ういかもしれませんが・・・しかし信頼おける情報なので、そこから考察するのですが、チャイコフスキー、最後の《悲愴交響曲》の終楽章、あの有名な痛切なメロディーは、メロディーが「バラバラに奏者に委ねられている」と聞きました。すなわち
オーケストラの奏者は、自分に任されている音がメロディーの一部を成すだけなので、個人的にメロディー全体を自分の力だけで感じて表現することが出来ないよう工夫が施されている、ということでしょうか。すなわち、個人的に感情を排せざるをえないよう、作曲家が操作した・・・!?この事実は
チャイコフスキー《悲愴》終楽章が、メロディーを奏者が感じて演奏出来ないよう操作された音楽なのだとしたら、そうなった理由は、チャイコフスキーは「奏者の感情的な演奏を嫌った」のだそう、それと一致するよう思われました。個人的感情を排し、それでも情感溢れる音楽が現れる自信があった!?
個人的感情の強さは、表現する演奏家・音楽家・芸術家には今日において不可欠な要素と思われます。しかし、クラシック音楽における理想の演奏を達成するためには、個人的感情に溺れず(それを内に強く秘めつつ!?)楽譜に記された為すべきことを成す・・・これに尽きるのでしょうか
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チャイコフスキーが最後に書いた《悲愴交響曲》には、奏者の個人的感情を排すよう操作がなされているという事実から、クラシック音楽の演奏に際して、個人的感情に溺れず、作品そのものの力を最大限引き出すよう奏者達は務めるべき!?という教訓があるよう、思われました
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