吉田秀和著 『現代の演奏』新潮社より抜粋
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〈レコード、ラジオなどの発達は、
私たちに甚大な影響をおよぼしつつある。
かつてそういう機械技術による再生手段がないか、
あってもごく幼稚で、
記録としてはとにかく、
芸術として真剣な問題にならなかったころ、
大家たちは、演奏に対して今とはちがった考え方をしていた。
ブゾーニやパデレフスキーも
ラフマニノフやパハマンも、
いまの若い演奏家たちとは、全くちがったことを演奏会でやっていた。
いま、私たちが彼らの残したレコードをきくと、
それはきくに耐えないほど、陳腐で、余計なものがいっぱいついた、
つまり悪趣味であいまいな演奏としかきこえない。
けれども、
彼らの姿をみ、その演奏をきいていた時、
私たちが体験したのは全くちがうものだった。
たとえばパハマンがショパンをひくのは、
細密画芸術を味わうようなもので、
そこで彼は本当に微妙で温かい血の通った芸術を、
私たちに与えてくれたものだった。
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その上彼は、
時々演奏の前後や、最中に、
自分で自分に注釈を加えるかのようにひとりごとをいったが、
それは聴衆にもよくきこえた。
また、ブゾーニは芸術について
非常に偉大で深遠な考えを抱いていた。
彼は演奏会の曲目にバッハのゴールトベルク変奏曲をもってきたり、
リストでは通俗的なブラヴーラ曲でなくて、
《パガニーニの練習曲》の全曲をひいたりした。
そうやって彼は、
ピアノという楽器がもつ最も高貴な豊かさをあますところなく、
展開しようとした。だから彼は、
たとえばベートーヴェンのハンマークラヴィーア・ソナタの緩徐楽章など、
どうしても若干のアイロニーを交えなくては演奏できないのだった。
あれは、もう超絶的な音楽であって、
ピアノはその下で苦しむばかりだから。
しかも、そのブゾーニが、ベートーヴェンをひく時、
私たちはその響きの深い禁欲的な荘厳さに
圧倒されずにはいられなかったものである。
こういうのが過去の大家たちであった。〉
〈だが、今はちがう。今は、
ピアニストたちはレコードやラジオによって、彼らの演奏が
今まで望んだこともないほどの大多数のきき手に知られるようになったことを、
片時も忘れることができない。
だから、彼らは、何よりも、
片よった演奏や不完全な演奏をするのを恐れなければならない。
なんらかの意味で人間的な接触をうる望みがない、無制限の多数者に、
また同じ演奏を何回も反復してきかれるだろう場合に、
彼らが自分の内部を示すのを恐れるのは当然ではないだろうか。
あらゆるゆきすぎは用心深くさけられ、
あらゆる欠陥は慎重に埋められなければならない。
そうなれば、
ある音楽について、
自分がどう考えているかを示すよりも、
楽譜にはこうあることを示し、
解釈はきき手に委ねる方が賢明ではなかろうか・・・・・・。
少なくとも、私には、今の若いピアニストたちは、
こう考えているように思われる。〉
私は、ここで読者の許しを求めなければなるまい。
以上の文章は、引用ではなくて、
私の前によんだもののウロ覚えを、私が勝手に敷衍したものだ。
いわばルービンシュタインの主題による私のパラフレーズである。
ただ、私は、自分の地の文章として発表するわけにもゆかない。
私は、ブゾーニもパハマンもきいてない世代の人間である。
だが、この考え方の根本にあるイデーそのものは、
誰のものであっても差し支えないのではないか。
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