先の記事を書く上で
久々に世阿弥著『花伝書』の一部を紐解いてみて、
クラシック音楽を演奏する人にとってもなかなか興味深く
応用できそうな箇所を見つけたのを、ご紹介したく思います。
――――――――――――――――――――――――――――――
ただ、幽玄にせんとばかり心得て、ものまねおろそかなれば、
それに似ず。似ぬをば知らで、幽玄にするぞと思う心、これ弱きなり。
されば、優女、美男などのものまねを、よく似せたらば、
おのづから幽玄なるべし。ただ似せんとばかり思ふべし。
――――――――――――――――――――――――――――――
「幽玄にせんとばかり心得て」
幽玄にしてやろうとばかり思っては、
うまくいかないということのようです。そうではなく、
「ただ似せんとばかり思ふべし」
幽玄な曲のあるがままの姿にひたすら似せようとすることが
「おのづから幽玄なるべし」
自然と幽玄であることにつながると、
この能の大家世阿弥は示唆しているように解釈してみました。
ということは、
この記事の表題「幽玄を目指す」という時点で・・・アウトですね。
まぁ、反面教師ということで、そのままにしておきましょう。
曲のあるがままの姿を似せる、これは、
西洋クラシック音楽における素晴らしい作曲家達が
楽譜に書き記したことを「似せよう」とする作業に
つなげて考えてみるのは、面白いかもしれません。
すなわち、
楽譜を吟味して(楽譜に忠実という言い方が好きでなく、
何か他の言い方が無いものか考えて、この「吟味」という
言葉にたどり着いたのですが・・・)
楽譜から音楽をつむぎだそうとする態度に
この「ものまね」「似せる」という言葉が
重なるように思えたのです。
楽譜に書かれたものをうまく似せられたのなら、
その時、幽玄な楽曲は幽玄な音楽として
奏でることに成功するのかもしれない、これを目標に、
楽譜と向き合ってみるのはいかがなものでしょうか。
これが、深く正しい意味での「楽譜通り」に演奏せんとする
態度に結びつくのではないかと、今の自分は信じております。
◇◆◇◆
話があちこちに飛んでしまいますが、
この「ものまね」という考え方に、ギリシア哲学の
「ミーメーシス(模倣)」という考え方が重なるようにも思えました。
すなわち、
芸術行為を「創造」という概念ではなく、
イデア的世界を「模倣」する行為としての芸術観。
もしかすると、世阿弥の言う「ものまね」と
重なるところが無くもないのかもしれない、なぞと
考えてみたりもするのでした。
室町時代の日本における世阿弥、
紀元前400年のギリシアにおけるプラトン、
時と場所を超越した、
芸術に対する類似した考え方があるのだとすれば、
数千年の時を越えた「普遍的な人間像」を
ここに垣間見ることができるのかもしれません。
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久々に世阿弥著『花伝書』の一部を紐解いてみて、
クラシック音楽を演奏する人にとってもなかなか興味深く
応用できそうな箇所を見つけたのを、ご紹介したく思います。
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ただ、幽玄にせんとばかり心得て、ものまねおろそかなれば、
それに似ず。似ぬをば知らで、幽玄にするぞと思う心、これ弱きなり。
されば、優女、美男などのものまねを、よく似せたらば、
おのづから幽玄なるべし。ただ似せんとばかり思ふべし。
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「幽玄にせんとばかり心得て」
幽玄にしてやろうとばかり思っては、
うまくいかないということのようです。そうではなく、
「ただ似せんとばかり思ふべし」
幽玄な曲のあるがままの姿にひたすら似せようとすることが
「おのづから幽玄なるべし」
自然と幽玄であることにつながると、
この能の大家世阿弥は示唆しているように解釈してみました。
ということは、
この記事の表題「幽玄を目指す」という時点で・・・アウトですね。
まぁ、反面教師ということで、そのままにしておきましょう。
曲のあるがままの姿を似せる、これは、
西洋クラシック音楽における素晴らしい作曲家達が
楽譜に書き記したことを「似せよう」とする作業に
つなげて考えてみるのは、面白いかもしれません。
すなわち、
楽譜を吟味して(楽譜に忠実という言い方が好きでなく、
何か他の言い方が無いものか考えて、この「吟味」という
言葉にたどり着いたのですが・・・)
楽譜から音楽をつむぎだそうとする態度に
この「ものまね」「似せる」という言葉が
重なるように思えたのです。
楽譜に書かれたものをうまく似せられたのなら、
その時、幽玄な楽曲は幽玄な音楽として
奏でることに成功するのかもしれない、これを目標に、
楽譜と向き合ってみるのはいかがなものでしょうか。
これが、深く正しい意味での「楽譜通り」に演奏せんとする
態度に結びつくのではないかと、今の自分は信じております。
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話があちこちに飛んでしまいますが、
この「ものまね」という考え方に、ギリシア哲学の
「ミーメーシス(模倣)」という考え方が重なるようにも思えました。
すなわち、
芸術行為を「創造」という概念ではなく、
イデア的世界を「模倣」する行為としての芸術観。
もしかすると、世阿弥の言う「ものまね」と
重なるところが無くもないのかもしれない、なぞと
考えてみたりもするのでした。
室町時代の日本における世阿弥、
紀元前400年のギリシアにおけるプラトン、
時と場所を超越した、
芸術に対する類似した考え方があるのだとすれば、
数千年の時を越えた「普遍的な人間像」を
ここに垣間見ることができるのかもしれません。
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