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音楽家ピアニスト瀬川玄「ひたすら音楽」

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(つづき2)ショッキングな音楽会 【イヴォ・ポゴレリッチ、ラフマニノフ《ピアノ協奏曲》】

2006年09月01日 | 音楽(一般)
この晩のポゴレリッチの弾いた楽器もすさまじかった。

まだソリストも出てこないオーケストラの音合わせの際、
コンマスがピアノの「ら」の音をひとつ弾いた所から、違和感を覚えた。
ピアノの音が「へにょ~~ん」と聴こえた気がしたのだ。
コンマスは、苦い顔をしながら苦笑している・・・
まさか・・・と思いながらも、ピアニストが前奏を弾き始めるところで
全ては分かるだろうと思い、ポゴレリッチの登場を待つ。
耳を凝らせて、ピアノの音に注意すると・・・案の定、
とてつもなく調律が狂っている。
単音にしろ、和音にしろ、音たちが奇妙な「うねり」をあげている。
まるで、学生の猛練習に食いつぶされた音楽大学の練習用ピアノのようだ。

これは、
調律師が手を抜いたとか、調律の手間を省いたわけではなく、
ピアニストによる要望と自分は推測する。

なぜか

デフォルメのラフマニノフ《ピアノ協奏曲》を再び絵画に例えるならば、
筆先の曲がった、あるいは毛先のぐしゃぐしゃになった、不ぞろいの
道具を敢えて使用して描くような書法があるのかもしれない、
そう考えると、
調律の崩れた楽器を使おうとした理由が分かるような気がした。

あくまでも、デフォルメなのだろうか。
使う道具まで、普通ではいけないということなのだろうか。


さらには、
ピアノ協奏曲の独奏者は、一般的には暗譜で弾くのが定石だ。
そんなポゴレリッチは、譜めくりの青年を引き従え、
しかしピアノの中に譜面台は無く、
譜めくりの彼が手元に楽譜を置いたまま、ピアニスト左側の
譜めくり定番の席に座り、演奏にあわせてひたすら楽譜をめくり、
ポゴレリッチは時に顔を横に向け、楽譜を覗き込むという
実に奇妙な光景であった。

暗譜に自信がなかったのか、それとも
暗譜する必要など彼にとってはもはや意味を失っているのか、
その真意をここで決定的にすることはできそうにない。


舞台に入る前、お辞儀をするとき、そして舞台を去るとき、
ポゴレリッチは終始「うすら笑い」を浮かべている・・・
あげくの果てにはカーテンコールの最中、
オーケストラに向かって手招きで、「おい、早く引き揚げよう」
と催促していた・・・




・・・彼にとっては、
もう全てがどうでもいいのだろうか・・・・



彼の変人ぶりは、デビュー当初は、そこまでヒドイものでは
なかったという。それがここ最近になって、
おそらくは妻の死去という出来事を期に
すっかり狂ってしまったのかもしれない。

そして、彼は自分の個性を出そうとして、あるいは
聴衆を脅かしてやろうと、奇を衒っているのではないように思える。
演奏が個性的であるのは、出そうとしているからではなく
今の彼にとって「そう出さざるを得ない」からなのではないだろうか。

厭世的な想いが彼の心を支配し、心のバランスを崩して、
奏でる音楽すらも常人のそれとは考えられない、奇怪な、変形した音楽
としてしか、今の彼には演奏することができないのだろうか。

それが、今の彼のもつ感性なのだろうか。

すべては、彼の、ポゴレリッチの
意識の中で行われている演奏行為なのだと見受けられなくもない。
確信犯ということになる。

彼の狂人振りさえも、あるいは彼の意識の内に成されているのかも
しれない。しかし、たとえそれが意識的なものであったとしても、
それを「意図されたもの」と言うにはしっくりこない。
彼自身そうだと分かっていて、そうするより他どうしようもない、
なるがままに身を任せての狂人ぶりのように思えるのだった。


◇◆◇◆


ここまでひたすら書いてきた内容は、
ポゴレリッチというピアニストについて自分が頭を振り絞って
考え・感じ、彼が何をどうしてそのようにしているのかを
捉えようという試みのようだ。言うなれば「アナリーゼ(分析)」か。

しかし、
単なる「分析」としてしか、ポゴレリッチを捉えなかったのであれば、
この晩のコンサートの収穫をここまで大げさに書き上げる必要は無かった。


自分はこの彼の音楽に共感し、もろ手を挙げてそれを賞賛することは
出来なかった。演奏会直後、
その場に居合わせたピアノの学生や教師の話す内容は、
「あれは無茶苦茶だった!」
「でも、すごいテクニックだった!」
「大きな手で、すさまじい音量だった!」
「すばらしいppのコントロールだ!」
「わけがわからない、帰ってちゃんとしたCDでも聴きたい」
などなど、
ポゴレリッチの演奏に対する波紋の広さを伺える会話が行き交った。

しかし、
彼らおよび自分自身のこうした会話を浅はかだと非難するべきでは
ないと思う。ピアノを弾く同業者として、ポゴレリッチの演奏が
あまりに「毒」であることが我々を困惑させるのだ。
素直に感動することの出来ないのは、常日頃自分達の向かっている
ピアノと音楽について、あまりに違う方向を示し、
そして喝采を浴びるポゴレリッチを目の当たりにして、
自分達が日頃必死になってやっていることはなんなのだろうという、
圧し掛かる不安を覚え、我々が混乱してしまうのは、
仕方の無いことかと考えたい。

それにしても、
それにしてもやはりこれは言い訳でしかないのかもしれない、
肝心なことはそこではない。


このポゴレリッチに演奏に、確かに
「心動かされた」人がいること、
これがこの演奏会における、音楽の大きな意味を持つように思える。


立ち上がってブラヴォーを連呼する人もいた。大いに感動したのだろう。
また一方では、そうした興奮を表に現すのではなく、
静かに、涙をこらえて、彼の奇怪な音楽に心を動かされた人もいたという・・・。


もはや、
よい、わるい、という単純な問題ではない。

一人の人間の生き様が音楽という鏡によって映し出された時空間が
そこにはあったのだった。


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1 コメント

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Unknown (mano)
2023-01-10 12:33:26
2023/1/8に東京芸術劇場でボゴレリッチのラフマニノフピアノ協奏曲2番を聞きました。あまりにひどい演奏だったのでいろいろと情報を検索していたところ、こちらにたどり着きました。こちらに書かれているのと全く同じ感想を持ち、驚いているところです。
前日の同一プログラムで指から出血したとの情報もありましたので、その影響かと思っていましたが。。
時々このような演奏をする人なのですね。楽しみにしていただけに非常にがっかりしました。
通りすがりに失礼いたしました。
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