【前置き】
この場をお借りしましてしばらくの間、
ベートーヴェン後期ソナタの名作のひとつ《31番op.110》について
書き綴ってみようかと思っております。時に内容が個人的な
イメージについて物語ることが多いかもしれません。しかしそれが、
個人のワガママ勝手な想像に陥ってしまっては音楽を突き詰めようとする
面白さが半減してしまうと思われ、あくまでも楽曲の姿を凝視し、
そこから湧き上って見えてくる音楽を書き綴ろうとする姿勢を大事に、
書いていきたいと考えております。
それにしても、多くの先人が言っていること・・・それは、
「音楽を、事細かに説明しようとするのはナンセンスなこと」
「音楽を真に理解せしめるのは音そのものでしかない」などなど
あります・・・それは、
きっとある面、真を得ていることなのでしょう。それでも、
この黄金律(!?) に反して、この《op.110》連載を書き進めていこうと
思った背景には、
「若さ」「若気の至り」という身分(!?) を拝借して、
この無謀な挑戦にチャレンジすることで、こうして作品を語ろうと
することが本当に無用なことであるかどうかを確かめてみよう、
という実験的な意味もあるかと考えてのことです。
無意味な結果に至るかもしれませんし、そうでないかもしれません。
ひとまずは、やってみないと分かりません。
こんな背景を念頭に置いていただきながらお付き合いいただけたら、
これ以上の喜びはございません。
◇◆◇◆
ベートーヴェン《ピアノソナタ31番op.110》のI楽章は、
古典器楽曲の基本とも言える「ソナタ形式」からなる
キレイなまとまりを成しています。すなわち、
●提示部(第1テーマ・第2テーマ・終結部)
●展開部(提示部で現れたモティーフを活用して展開させる部分)
●再現部
●コーダ(音楽のおしまいに向かう部分)
といった形です。
以前、書いたことがありましたが、
この《op.110》の前作
《ソナタ30番op.109》I楽章においては、シンプル性を
極めつくしたような密度の高いソナタ形式が成功されており(第1テーマが
たったの8小節という事実が、《ソナタ30番》のシンプル性・凝縮性を
表すひとつと考えられます)
そういう意味において《ソナタ30番》は、
音楽史上まれに見る奇跡のような作品ということができるかもしれません。
それに比べてみると、
この《ソナタ31番op.110》においては、そこまでの凝縮された感じは
なさそうです。しかし、
これは《op.110》の価値をその分損なうということでは全く無く、
「ソナタ形式」という姿を、弾くものにとっても聴くものにとっても
無理なくそれに沿って音楽の流れを愉しむことができるという
キーワードになるのだと考えることができます。
「ソナタ形式」の確立は、ベートーヴェンの師にもあたる
三つ葉のウィーン古典派の一人、ハイドンによるとされています。
ベートーヴェンとハイドンの師弟関係は、必ずしも好ましいもので
あったとは言えないものの、音楽的な内容において、ベートーヴェンが
ハイドンの影響をいかに多く受けていたかを探し求めるのは、
非常に有意義な、中身の濃い詮索だと最近気付きました。
それはともかく、
「ソナタ形式」がひとつの典型的な形を成したことで、
クラシック音楽の発展は、以後数世紀に渡り(今日なお!?)
この形式の恩恵にあずかっているということができるのかもしれません。
《op.110》のみに限らず、クラシックの音楽をより充実して愉しむことが
できるようになる大きな助けを、この「ソナタ形式」が担っているといって
過言ではないかもしれません。
つづく
この場をお借りしましてしばらくの間、
ベートーヴェン後期ソナタの名作のひとつ《31番op.110》について
書き綴ってみようかと思っております。時に内容が個人的な
イメージについて物語ることが多いかもしれません。しかしそれが、
個人のワガママ勝手な想像に陥ってしまっては音楽を突き詰めようとする
面白さが半減してしまうと思われ、あくまでも楽曲の姿を凝視し、
そこから湧き上って見えてくる音楽を書き綴ろうとする姿勢を大事に、
書いていきたいと考えております。
それにしても、多くの先人が言っていること・・・それは、
「音楽を、事細かに説明しようとするのはナンセンスなこと」
「音楽を真に理解せしめるのは音そのものでしかない」などなど
あります・・・それは、
きっとある面、真を得ていることなのでしょう。それでも、
この黄金律(!?) に反して、この《op.110》連載を書き進めていこうと
思った背景には、
「若さ」「若気の至り」という身分(!?) を拝借して、
この無謀な挑戦にチャレンジすることで、こうして作品を語ろうと
することが本当に無用なことであるかどうかを確かめてみよう、
という実験的な意味もあるかと考えてのことです。
無意味な結果に至るかもしれませんし、そうでないかもしれません。
ひとまずは、やってみないと分かりません。
こんな背景を念頭に置いていただきながらお付き合いいただけたら、
これ以上の喜びはございません。
◇◆◇◆
ベートーヴェン《ピアノソナタ31番op.110》のI楽章は、
古典器楽曲の基本とも言える「ソナタ形式」からなる
キレイなまとまりを成しています。すなわち、
●提示部(第1テーマ・第2テーマ・終結部)
●展開部(提示部で現れたモティーフを活用して展開させる部分)
●再現部
●コーダ(音楽のおしまいに向かう部分)
といった形です。
以前、書いたことがありましたが、
この《op.110》の前作
《ソナタ30番op.109》I楽章においては、シンプル性を
極めつくしたような密度の高いソナタ形式が成功されており(第1テーマが
たったの8小節という事実が、《ソナタ30番》のシンプル性・凝縮性を
表すひとつと考えられます)
そういう意味において《ソナタ30番》は、
音楽史上まれに見る奇跡のような作品ということができるかもしれません。
それに比べてみると、
この《ソナタ31番op.110》においては、そこまでの凝縮された感じは
なさそうです。しかし、
これは《op.110》の価値をその分損なうということでは全く無く、
「ソナタ形式」という姿を、弾くものにとっても聴くものにとっても
無理なくそれに沿って音楽の流れを愉しむことができるという
キーワードになるのだと考えることができます。
「ソナタ形式」の確立は、ベートーヴェンの師にもあたる
三つ葉のウィーン古典派の一人、ハイドンによるとされています。
ベートーヴェンとハイドンの師弟関係は、必ずしも好ましいもので
あったとは言えないものの、音楽的な内容において、ベートーヴェンが
ハイドンの影響をいかに多く受けていたかを探し求めるのは、
非常に有意義な、中身の濃い詮索だと最近気付きました。
それはともかく、
「ソナタ形式」がひとつの典型的な形を成したことで、
クラシック音楽の発展は、以後数世紀に渡り(今日なお!?)
この形式の恩恵にあずかっているということができるのかもしれません。
《op.110》のみに限らず、クラシックの音楽をより充実して愉しむことが
できるようになる大きな助けを、この「ソナタ形式」が担っているといって
過言ではないかもしれません。
つづく