今日になって(本番3日前・・・おいおい)、ようやく見えてきたことがあります。インスピレーションの到来!?
《op.101》を弾きながら、細かい部分の弾き込みと調整を進める。
以前から、うすうすとは気付いていたのですが、
音楽のたのしみのひとつに、「会話」という要素があるように
考えていました。
●右手と左手がおしゃべりする。
●異なる声部がおしゃべりする。
●高音の天国的音域と、低音の地獄的音域がおしゃべりする。
●恋人同士のおしゃべり
などなど、例を挙げたらきりが無いのですが、
ところで、
自分は哲学の分野をほんの少しばかり覗いただけで、確かなことを
書くことはできないのですが、興奮の中にも、本日の自分にとっての
大収穫をご紹介したく、こうして書いてみています。
「弁証法」については、なんとなく知っていました。あくまでも「なんとなく」であって、非常に浅はかなものですが・・・・
「These(テーゼ)とAntithese(アンチテーゼ)がぶつかり合って、
Synthese(シンテーゼ)となる」
ほう、なるほどねぇ~、
違う意見がぶつかり合って、一段階上の考えに至るのか~、
いい話だ・・・・
という程度にしか、今までの自分には実感の沸かない考え方だったのです。頭では知っていた・・・しかし、実感が伴っていなかったのだと、今となっては強く思うのです。
《op.101》は、そんな自分に新たな「弁証法」という世界を見開かせてくれるきっかけ・飛跡・起爆剤となりました。
それに気付いたのは、《op.101》終楽章の展開部のFughetta(フゲッタ)の部分でした。
以前の日記にも色々と書きました。とにかく難しい箇所です。
左右の手が入り乱れ、あっちやこっちにテーマやモチーフが現れ、
演奏者は必死でそれを追う(「必死」という言葉が実に当てはまるように思われます)
右手と左手が、交互に自己を主張しあうような展開部の最後が訪れ、
ついに、あの「Contra E」が鳴り響き、再現部へと帰るカタルシス!!
右手と左手・・・・?
テーゼとアンチテーゼ?
じゃあ、「Contra E」は・・・・・シンテーゼ!?
ベートーヴェンが、おそらくは再現部までわざわざ使用することを我慢していた「Contra E」については以前書いたとおりです。
なぜ、この再現部に入るところがここまで高潮するのか、気分が高まらずにはいられないのか、
その謎が自分の中でひとつ解けたようでした・・・
「弁証法」と「音楽」の深いつながりがあるのだと、
今日の自分には信じられます。
上で得たようなヒントを元に、《op.101》をさらいなおす・・・・
すると、器楽曲であるこの《ピアノ・ソナタ》が、「言葉のチカラ」
を借りることなく、我々に語りかけてくるその方法が、いよいよ
見えてきたように思えたのです。
あらゆる部分が、会話している。
それは、複数の楽章にまたがるひとつの《ソナタ》という曲が
ひとつの大きな方向に「会話」をしながら進んでいるかのようです。
それが「テーゼ」と「アンチテーゼ」の衝突、
そして「シンテーゼ」への止揚(Aufheben)へと至る・・・・
この《op.101》終楽章を考えてみると、冒頭でポジティブなエネルギーに満ちた「歓び」を思わせるテーマが鳴り響き、舞踏のような第2テーマも愉快なものです。
展開部で、いよいよ紆余曲折、テーゼとアンチテーゼが闘い始める。
再現部に至って、楽章冒頭のテーマが「Contra E」に導かれて戻ってくる、それは
あぁ、やっぱりそうだったのか~~~~~!!!!
あぁ、やっぱり正しかったんだ~~~~~!!!!!
といって第一テーマが再現を喜んでいるかのよう・・・
どうやら、今回のプログラムがようやく見えてきた・・・のかもしれない。手探りの人生を実感する毎日です。
《op.101》を弾きながら、細かい部分の弾き込みと調整を進める。
以前から、うすうすとは気付いていたのですが、
音楽のたのしみのひとつに、「会話」という要素があるように
考えていました。
●右手と左手がおしゃべりする。
●異なる声部がおしゃべりする。
●高音の天国的音域と、低音の地獄的音域がおしゃべりする。
●恋人同士のおしゃべり
などなど、例を挙げたらきりが無いのですが、
ところで、
自分は哲学の分野をほんの少しばかり覗いただけで、確かなことを
書くことはできないのですが、興奮の中にも、本日の自分にとっての
大収穫をご紹介したく、こうして書いてみています。
「弁証法」については、なんとなく知っていました。あくまでも「なんとなく」であって、非常に浅はかなものですが・・・・
「These(テーゼ)とAntithese(アンチテーゼ)がぶつかり合って、
Synthese(シンテーゼ)となる」
ほう、なるほどねぇ~、
違う意見がぶつかり合って、一段階上の考えに至るのか~、
いい話だ・・・・
という程度にしか、今までの自分には実感の沸かない考え方だったのです。頭では知っていた・・・しかし、実感が伴っていなかったのだと、今となっては強く思うのです。
《op.101》は、そんな自分に新たな「弁証法」という世界を見開かせてくれるきっかけ・飛跡・起爆剤となりました。
それに気付いたのは、《op.101》終楽章の展開部のFughetta(フゲッタ)の部分でした。
以前の日記にも色々と書きました。とにかく難しい箇所です。
左右の手が入り乱れ、あっちやこっちにテーマやモチーフが現れ、
演奏者は必死でそれを追う(「必死」という言葉が実に当てはまるように思われます)
右手と左手が、交互に自己を主張しあうような展開部の最後が訪れ、
ついに、あの「Contra E」が鳴り響き、再現部へと帰るカタルシス!!
右手と左手・・・・?
テーゼとアンチテーゼ?
じゃあ、「Contra E」は・・・・・シンテーゼ!?
ベートーヴェンが、おそらくは再現部までわざわざ使用することを我慢していた「Contra E」については以前書いたとおりです。
なぜ、この再現部に入るところがここまで高潮するのか、気分が高まらずにはいられないのか、
その謎が自分の中でひとつ解けたようでした・・・
「弁証法」と「音楽」の深いつながりがあるのだと、
今日の自分には信じられます。
上で得たようなヒントを元に、《op.101》をさらいなおす・・・・
すると、器楽曲であるこの《ピアノ・ソナタ》が、「言葉のチカラ」
を借りることなく、我々に語りかけてくるその方法が、いよいよ
見えてきたように思えたのです。
あらゆる部分が、会話している。
それは、複数の楽章にまたがるひとつの《ソナタ》という曲が
ひとつの大きな方向に「会話」をしながら進んでいるかのようです。
それが「テーゼ」と「アンチテーゼ」の衝突、
そして「シンテーゼ」への止揚(Aufheben)へと至る・・・・
この《op.101》終楽章を考えてみると、冒頭でポジティブなエネルギーに満ちた「歓び」を思わせるテーマが鳴り響き、舞踏のような第2テーマも愉快なものです。
展開部で、いよいよ紆余曲折、テーゼとアンチテーゼが闘い始める。
再現部に至って、楽章冒頭のテーマが「Contra E」に導かれて戻ってくる、それは
あぁ、やっぱりそうだったのか~~~~~!!!!
あぁ、やっぱり正しかったんだ~~~~~!!!!!
といって第一テーマが再現を喜んでいるかのよう・・・
どうやら、今回のプログラムがようやく見えてきた・・・のかもしれない。手探りの人生を実感する毎日です。