2009年日本においては、あと一ヶ月もすると
衆院選という大きな政治・社会の節目を迎えることとなります。
巷では政治の話題もより一層多くなってきて、
今日のような日曜の朝には多くの政治番組が集中的に放映されて、
興味深い政治家たちのやり取りが交わされています。
そんな番組のひとつを見ながら、
ふと、こんな言葉が耳に止まり、思いついたのでした。
地方分権といったテーマに関わりながら、
■■■■■
■ 国 ■
■ ↓ ■
■地方 ■
■ ↓ ■
■市町村■
■■■■■
という縦割りの行政でなく、
■■■■■■■■
■ 国⇔地方 ■
■■■■■■■■
といった横並びの行政システムになれれば
という話だったのです。
このような話を聞いて、ふと、
以前から自分の中でまとまりつつある
クラシック音楽をする上でのアイディア・意見と
一致するところを見た気がするのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
クラシックという音楽ジャンルにおいては
すでに楽譜上に作曲された作品を演奏することで、
それが音楽となるシステムがとられます。
ここに大きく関わってくるのは
その作品を書き記した「作曲家」の存在です。
etc.......
19世紀を境に、
クラシックの作曲家達は、実にその音楽的な詳細まで
楽譜に記述するよう努めました。
偉大な作曲家であればあるほど、
そこに記された情報は、精度の高く、
芸術的な高みを内包するものと言って過言ではないでしょう。
そこで、クラシック音楽をする上において、
よく聞かれる言葉があるのですが、それは
●楽譜通りに弾きなさい
●作曲家の書いたことは絶対
●演奏者は作曲家の意図を忠実に再現することに務める
といった内容の言葉です。
上記しました通り、偉大な作者によって作品に認められた
数々の指示は、非常に大きな価値のあるものです。
私自身、これをとても頼りにして、これを研究して、
自身の演奏に反映できるよう努めております。
しかし、
列記しましたような「楽譜通り」「作曲家は絶対」「意図に忠実」
といった言葉には、なにがしかの違和感を以前から感じておりました。
それは、
行政の「縦割り」か「横並び」かといった内容に
通じるものなのかもしれません。
すなわち、
■■■■■
■作曲家■
■ ↓ ■
■演奏者■
■■■■■
という上下関係ではなく、
■■■■■■■■■
■作曲家⇔演奏者■
■■■■■■■■■
という横並びの立場としてとらえ、
演奏者は積極的に・能動的に
その時その場に鳴り響く音楽を心掛けるという姿勢が
とても好ましいのではないか、と思っているのです。
さらに詳しく見てみるならば、
楽譜を介在した音楽芸術の成り立ちにおいては、
■■■■■■■■■■■■
■作曲家→楽譜←演奏者■
■■■■■■■■■■■■
↓↓↓↓↓↓
◇◇◇◇
◇音楽◇
◇◇◇◇
という構図が成り立つように思えるのです。
作曲家にとっても、演奏者にとっても、目指すところは、
よりよい・素晴らしい・理想的な「音楽」そのものなのではないでしょうか。
付け加えますと、
私自身は作曲をすることは無く、
完全に演奏者の立場をとっておりますが、
その観点から思い返してみますと、
いくら作曲家と演奏者が横並びになったからといっても、
自分の立場が上がった・自分が偉くなった
なぞとは到底思えないのです。
横並びの人間同士の関係においても、
その横にいるクラシックの作曲者(多くは数百年の時を隔てた過去の先人)
に対する敬意、すごい!!これはかなわない!!と思う心とともに、
まだまだ自分なぞという謙遜の思いも抑えることは出来ません。
そして、楽譜を通して、そのような偉大なる先人の指示を仰げることが
クラシック音楽の醍醐味といえるようにも思えるのです。
いやはや、
このように色々と考えてみますと、
クラシック音楽における【構造改革】
すなわち、作曲家と演奏者との関係における
「縦割り」ではなく「横並び」というアイディアは、
その時その場限りに流れる「音楽」というものの
よりアクティブで生気ある芸術としての可能性が
より一層高まるキッカケ・コツとなるのではないだろうか、と
選挙にちなんで(!?)マニュフェストを掲げて(!?)みたいと思います。
衆院選という大きな政治・社会の節目を迎えることとなります。
巷では政治の話題もより一層多くなってきて、
今日のような日曜の朝には多くの政治番組が集中的に放映されて、
興味深い政治家たちのやり取りが交わされています。
そんな番組のひとつを見ながら、
ふと、こんな言葉が耳に止まり、思いついたのでした。
地方分権といったテーマに関わりながら、
■■■■■
■ 国 ■
■ ↓ ■
■地方 ■
■ ↓ ■
■市町村■
■■■■■
という縦割りの行政でなく、
■■■■■■■■
■ 国⇔地方 ■
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といった横並びの行政システムになれれば
という話だったのです。
このような話を聞いて、ふと、
以前から自分の中でまとまりつつある
クラシック音楽をする上でのアイディア・意見と
一致するところを見た気がするのです。
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クラシックという音楽ジャンルにおいては
すでに楽譜上に作曲された作品を演奏することで、
それが音楽となるシステムがとられます。
ここに大きく関わってくるのは
その作品を書き記した「作曲家」の存在です。
etc.......
19世紀を境に、
クラシックの作曲家達は、実にその音楽的な詳細まで
楽譜に記述するよう努めました。
偉大な作曲家であればあるほど、
そこに記された情報は、精度の高く、
芸術的な高みを内包するものと言って過言ではないでしょう。
そこで、クラシック音楽をする上において、
よく聞かれる言葉があるのですが、それは
●楽譜通りに弾きなさい
●作曲家の書いたことは絶対
●演奏者は作曲家の意図を忠実に再現することに務める
といった内容の言葉です。
上記しました通り、偉大な作者によって作品に認められた
数々の指示は、非常に大きな価値のあるものです。
私自身、これをとても頼りにして、これを研究して、
自身の演奏に反映できるよう努めております。
しかし、
列記しましたような「楽譜通り」「作曲家は絶対」「意図に忠実」
といった言葉には、なにがしかの違和感を以前から感じておりました。
それは、
行政の「縦割り」か「横並び」かといった内容に
通じるものなのかもしれません。
すなわち、
■■■■■
■作曲家■
■ ↓ ■
■演奏者■
■■■■■
という上下関係ではなく、
■■■■■■■■■
■作曲家⇔演奏者■
■■■■■■■■■
という横並びの立場としてとらえ、
演奏者は積極的に・能動的に
その時その場に鳴り響く音楽を心掛けるという姿勢が
とても好ましいのではないか、と思っているのです。
さらに詳しく見てみるならば、
楽譜を介在した音楽芸術の成り立ちにおいては、
■■■■■■■■■■■■
■作曲家→楽譜←演奏者■
■■■■■■■■■■■■
↓↓↓↓↓↓
◇◇◇◇
◇音楽◇
◇◇◇◇
という構図が成り立つように思えるのです。
作曲家にとっても、演奏者にとっても、目指すところは、
よりよい・素晴らしい・理想的な「音楽」そのものなのではないでしょうか。
付け加えますと、
私自身は作曲をすることは無く、
完全に演奏者の立場をとっておりますが、
その観点から思い返してみますと、
いくら作曲家と演奏者が横並びになったからといっても、
自分の立場が上がった・自分が偉くなった
なぞとは到底思えないのです。
横並びの人間同士の関係においても、
その横にいるクラシックの作曲者(多くは数百年の時を隔てた過去の先人)
に対する敬意、すごい!!これはかなわない!!と思う心とともに、
まだまだ自分なぞという謙遜の思いも抑えることは出来ません。
そして、楽譜を通して、そのような偉大なる先人の指示を仰げることが
クラシック音楽の醍醐味といえるようにも思えるのです。
いやはや、
このように色々と考えてみますと、
クラシック音楽における【構造改革】
すなわち、作曲家と演奏者との関係における
「縦割り」ではなく「横並び」というアイディアは、
その時その場限りに流れる「音楽」というものの
よりアクティブで生気ある芸術としての可能性が
より一層高まるキッカケ・コツとなるのではないだろうか、と
選挙にちなんで(!?)マニュフェストを掲げて(!?)みたいと思います。