ブラームスBrahmsが「喜劇は終わった――」を
楽曲にしてしまった・・・
そう思えたのは、ふたつの作品からです。
ひとつは、ブラームスにとっての
●最後の交響曲《第4番 e-moll op.98》の
終楽章“Allegro energico e passionato”
そして最後のピアノソロ曲、
●《4つの小品Vier Stuecke op.119》より
終曲《狂詩曲Rhapsodie Es-Dur》
期せずして、ともにそのジャンルにおける
最後の幕を締める曲・楽章です。
《交響曲4番》の終楽章は、
「シャコンヌ(あるいはパッサカリア)」の形の変奏曲。
ホ短調e-mollという調性に、
冒頭のトロンボーンの合奏から
重く・鋭く、身が刻まれる思いのする
感動の大ドラマのような音楽です。
ついに曲は最後、
怒涛のように流れ落ちる弦楽器に、
e-mollの「短調」のまま、終りを迎えます・・・
・・・・うまく言葉にすることの出来ない猛烈な感動が
この《交響曲》を通して身を震わせるのでした
そして、
ピアノ曲《Rhapsodie Es-Dur op.119-4》の方は、
勇壮な変ホ長調Es-Durの「フォルテf」の和音に始まる
行進のようでもあります(・・・どこへ向けて行く?)。
Es-Durといえば連想されるのは
例えばベートーヴェンの《交響曲第3番“英雄Eroica”》
のような、まさに「英雄的」な力強さのある
そんな性格のEs-Durという調性感といえましょうか。
しかし・・・
この《Rhapsodie》、
ただ事ではありません・・・
Es-Durの勇壮な調性に始まったこの音楽は、
es-mollというフラット♭が6つも付いた「同主調」となって
終わりを迎えるという「異例の事態」が待っているのです・・・
少なくとも今の自分には他にこのような例が思い浮かびません。
バッハBachの《平均律クラヴィア》を思い返してみるならば、
I巻においては、
「短調」に始まった曲が「長調」に終わるのがほとんどです。当時、
音楽の終わりは「長調で終始してはじめて完全な終わりとなる」
考え方があったという話を聞いたこともあります。
II巻においては、
短調に始まった曲が、そのまま短調で終わることがあります。
バッハの音楽の変遷をここに見ることができるとも言えましょうか。
それにしても!!
このブラームスの《Rhapsody》のように、
「長調」に始まった音楽が「短調」で終わるというのは、
これは「異常な事態」といってよいのではないでしょうか!?
この《Rhapsody》の終わりCodaは、
短調の暗い響きの中で
怒涛のごとく荒れ狂うアルページオに
和音の決然たる中断、ついには
不気味にも一度「p」に音量を落とし、
差し迫る足音はついには
和音とオクターブの跳躍で
ピアノという楽器の上から下までをかき鳴らす
乱舞・・・?いや、そんな暴力的なものではない
決然たる悲劇の終焉
「Komoedie ist vorbei――」
そう言って息絶えたベートーヴェンの言葉と重なるように、
今の自分にはこれらの音楽が聴こえてくるのでした
――――――――――――――――――――――
死は甘いか、辛いか、
この連載の初回冒頭で書きました。
ロマン派の扉を開いたベートーヴェンの見るもの、
それに続くブラームスの見るもの、
それは時代の流れなのかもしれない・・・
あるいは、
人生はシーソーゲームのようなものなのかもしれない、
片方があがったら、今度は反対側があがる時が来る
その周期は、人間の一生の内に
日替わりに変わるようなものであったり、あるいは
幾度かの転換期を迎えるものであったり、あるいは
何世代もの人間の連なりをもってようやく
舵が反対を向き始める周期の大きなものであったり・・・
巨大な音楽史における大作曲家達の楽品を通して
そんな一端を垣間見た気がするのでした。
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楽曲にしてしまった・・・
そう思えたのは、ふたつの作品からです。
ひとつは、ブラームスにとっての
●最後の交響曲《第4番 e-moll op.98》の
終楽章“Allegro energico e passionato”
そして最後のピアノソロ曲、
●《4つの小品Vier Stuecke op.119》より
終曲《狂詩曲Rhapsodie Es-Dur》
期せずして、ともにそのジャンルにおける
最後の幕を締める曲・楽章です。
《交響曲4番》の終楽章は、
「シャコンヌ(あるいはパッサカリア)」の形の変奏曲。
ホ短調e-mollという調性に、
冒頭のトロンボーンの合奏から
重く・鋭く、身が刻まれる思いのする
感動の大ドラマのような音楽です。
ついに曲は最後、
怒涛のように流れ落ちる弦楽器に、
e-mollの「短調」のまま、終りを迎えます・・・
・・・・うまく言葉にすることの出来ない猛烈な感動が
この《交響曲》を通して身を震わせるのでした
そして、
ピアノ曲《Rhapsodie Es-Dur op.119-4》の方は、
勇壮な変ホ長調Es-Durの「フォルテf」の和音に始まる
行進のようでもあります(・・・どこへ向けて行く?)。
Es-Durといえば連想されるのは
例えばベートーヴェンの《交響曲第3番“英雄Eroica”》
のような、まさに「英雄的」な力強さのある
そんな性格のEs-Durという調性感といえましょうか。
しかし・・・
この《Rhapsodie》、
ただ事ではありません・・・
Es-Durの勇壮な調性に始まったこの音楽は、
es-mollというフラット♭が6つも付いた「同主調」となって
終わりを迎えるという「異例の事態」が待っているのです・・・
少なくとも今の自分には他にこのような例が思い浮かびません。
バッハBachの《平均律クラヴィア》を思い返してみるならば、
I巻においては、
「短調」に始まった曲が「長調」に終わるのがほとんどです。当時、
音楽の終わりは「長調で終始してはじめて完全な終わりとなる」
考え方があったという話を聞いたこともあります。
II巻においては、
短調に始まった曲が、そのまま短調で終わることがあります。
バッハの音楽の変遷をここに見ることができるとも言えましょうか。
それにしても!!
このブラームスの《Rhapsody》のように、
「長調」に始まった音楽が「短調」で終わるというのは、
これは「異常な事態」といってよいのではないでしょうか!?
この《Rhapsody》の終わりCodaは、
短調の暗い響きの中で
怒涛のごとく荒れ狂うアルページオに
和音の決然たる中断、ついには
不気味にも一度「p」に音量を落とし、
差し迫る足音はついには
和音とオクターブの跳躍で
ピアノという楽器の上から下までをかき鳴らす
乱舞・・・?いや、そんな暴力的なものではない
決然たる悲劇の終焉
「Komoedie ist vorbei――」
そう言って息絶えたベートーヴェンの言葉と重なるように、
今の自分にはこれらの音楽が聴こえてくるのでした
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死は甘いか、辛いか、
この連載の初回冒頭で書きました。
ロマン派の扉を開いたベートーヴェンの見るもの、
それに続くブラームスの見るもの、
それは時代の流れなのかもしれない・・・
あるいは、
人生はシーソーゲームのようなものなのかもしれない、
片方があがったら、今度は反対側があがる時が来る
その周期は、人間の一生の内に
日替わりに変わるようなものであったり、あるいは
幾度かの転換期を迎えるものであったり、あるいは
何世代もの人間の連なりをもってようやく
舵が反対を向き始める周期の大きなものであったり・・・
巨大な音楽史における大作曲家達の楽品を通して
そんな一端を垣間見た気がするのでした。
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先日まで某温泉観光地にて講習を受けていた折に瀬川さんの事を知り、このブログにたどり着きました。
色々と記事を読ませていただきましたが、大変勉強になる上、読んでいるととても気持ちが入り込んでしまいます。引き込まれるといいますか。それと同時に、今迄の自分の演奏における姿勢や準備、知識など、どれほど欠けていたかを思い知ってしまい、情けなくも感じられました。音楽家として、まだまだ未熟です。このブログを読んでいて、瀬川さんの姿勢に、「わたしもこうありたい」と強く憧れを抱きました。
既にブログの愛読者です。今後も是非、お時間の許す限り更新をお願い致します!
ちなみにベートーヴェンの言い残した「喜劇」とはなんなのか。私のような若輩者がまずピンとくるのは、彼自身の波乱の人生そのものを、彼が「喜劇」と称したのかということでしたが(単純ですみません)、瀬川さんのお考えに大変興味を持ちましたので、しばらく考えを巡らしてみようかと思います。