ベルリンフィルの元ヴィオラ奏者、土屋邦雄氏の指揮する演奏会を聴いてきました。よかった!「本物」を目の当たりにした感じ・・・モーツァルトの音楽が、まさにそう在りたいよう、指揮者は体感を持って見事にそれが実現されたよう、私には感じられました。凄い!
往年のベルリンフィル、特にカラヤン時代を生きてこられた土屋氏の身体に染み込んだ「音楽」が、指揮者としても存分に発揮されている。オーケストラはプロ・アマを超越して、土屋氏が体現し導く音楽に引き込まれてゆく、それに会場ものめり込んでいるよう・・・こんな《ジュピター》を私は初めて聴きました!
しかし本番の演奏としては、それは生々しいまでの最高の「体感」から来る音楽のように、思われました。この境地に達せられたら、もうかなわない!脱帽!そして嬉しい!素晴らしい音楽に出会えて。
「よく分かっている、よく感じている、それが当然でもある!」 ベルリンフィルという世界最高峰の音楽シーンに属したクラシック音楽家の貴重な無形文化財!?
私は「感性・知性・技術」の三本柱を思って音楽する今日この頃ですが、今日に至っては「感性」の最重要性を思わされました!知性は、最高の感性が喜ぶよう整え導き、技術はそれが実現できるよう必要不可欠なもの、そして最初にして最後にも、結局は感じ楽しむ!・・・これ音楽!?
そして、しかし・・・感覚・体感は消え失せるものであることも予想されます・・・ つなぎ止めたい!そのためには!?
いやはや・・・周囲は勝手なことを言う!(自戒) みんなそれぞれ、一生懸命やっているはずなのです! 人の尊い行い
やはり、《魔笛》のそれぞれの音楽は「極地・究極」のようにも思えてきました。《交響曲「ジュピター」》を経て、昇華されるモーツァルトの音楽・・・!音楽の天才の仕業
強い刺激を受け、言葉もまとまらないまま、つぶやき続けてしまいました・・・ご容赦下さい!
あの身体の動き!音楽と一体化している者の自由!その背後には、脳で考え・刻みこまれた経験等が脈々と息づいている・・・しかしそれらは背後に隠れていた
今日の土屋氏からは、最近読んだ吉田秀和先生の文章、「フルトヴェングラーが戦後、手兵ベルリンフィルを率いてパリで演奏した、彼らの音楽する姿」の名残があるような気もしてしまいました・・・それは半世紀以上前の話!!(土屋氏はカラヤン時代の人であるにも関わらず)