音楽家ピアニスト瀬川玄「ひたすら音楽」

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(つづき)世阿弥「音曲はたらき一心」を考える=【譜面と体の使い方】

2006年06月08日 | 音楽(一般)
西洋クラシック音楽の大作曲家達が、
楽譜に自らの高い音楽を書き写そうと苦渋の努力を払ったであろう
その譜面から、我々演奏者(解釈者)は、そんな彼らの高い音楽世界を
理解し、共感し、協調し、ついには我が物と一心となるよう、
こちらも苦渋の努力を払うのです・・・。

こうした努力の過程において、
世阿弥の言う「音曲はたらき一心」を思い返してみますと、
作曲家の書いた様々な音符や表示を、
演奏者自身の心と体の奥底から共感し、
それに見合った体の使い方をできるよう、
練習の場において、試行錯誤、工夫するのがよいのではないか!?
という考えに至ったのです。


具体的に例えば、
「pp」と作曲家が書いている音を、
それがどんな「pp」なのかを工夫してみる・・・
●内緒話をするように身をかがめて弾くのか
●静寂であるべく、体も「静」を保つのか
●天空に澄み切る「pp」を目指すべく、
体自体をも上・後方へ浮かび上がるように弾くのか


あるいは、
「crescendo」が
●地に潜り込むごとく、底へ底へと突き進むような音の増大なのか
●天空に舞い上がるごとく、高みを目指して上へ上へと力強く高まるのか
など・・・。

・・・・ん~・・・
こうして言葉にして書きながら危険性を感じまして、大いに注意すべきは

●決して体の動きの「やりすぎ」は、理想とする音の「実際」と結びつかない
ことが多々、ということを思い出しました・・・。

感情が豊かで、
「こういう音が出したい!!」「ここではこういう音楽が!!」
と強く感じている演奏者が陥り易い罠のようなものでしょうか・・・。
気持ちが大きく先行して体もそのように動いているようだけれど・・・・
実際の音は、動きの割りに平坦であることが多々見受けられます・・・・

自分で言うのもなんですが、はい、私がこういうタイプなんですね(自爆)
だからこそ、常々反省を繰り返しながら今日に至っているのですが・・・。


それにしても、
楽譜の詳細を研究して、それぞれの表現を自己の中に納得できるよう精進し、
その都度の理想の音楽表現を可能せしめる体の使い方を工夫し、
ああだ、こうだと楽器に向かい、日々練習する・・・・
きっと、音楽家として一生を生きていこうとするのであれば、
永遠にこの作業の繰り返しなのでしょう。

巨匠リヒテルが「技術的な問題を克服するために、我々は日に6時間もの時間を
楽器に向かって費やさねばならない、なんと耐え難い人生だ!!」のような
ことを嘆いて(!?)いる文章を読んだことがあります・・・。
でも、彼は一生を立派な音楽家・芸術家として過ごしました。
これも、ひとつの生き方なんですね。
「無上第一の上手」「堪能の境地」を目指して!?・・・・練習、練習です!!
(うわ・・・我ながらおこがましい・・・でも、
目指すのは個人の自由か?自問自答・・・)


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