先日、
2月23日(月)の夜に、東京文化会館における
ピアノ・ソロ・リサイタルを終えることが出来ました。
ご来場の皆様、応援下さった皆様に
深く御礼申し上げます。
日が少し経って、
あらためて、あの日の演奏会は自分にとっての、
時を追うごとに、大きなものであったことが実感されます。
同時に、
あのような演奏会は、
これからの自分の人生において
同じような密度の濃いものは・・・
そう簡単には出来ないのではないか!?
とすら、思われなくもありません・・・
あの日・あの場に持っていった
集中力なり、準備なり、気なり、etc...は、
自分の・身近な関係者の想像する以上に
大きなものだったのかもしれません。
それが、
少しは実になったのかな・・・?
ありがたいことに、大勢の方々から、
「感動した」という言葉をいただいており、
心よりうれしく思います。
あるいは
「なんだかよく分からなかったけれど、感動した」
「クラシックはよく分からないのだけれど、感動した」
というお言葉も聞こえてきて、
これは、音楽家にとっての、最も喜ばしい言葉として
受け取って良いものかもしれません。
ショパンの《ソナタ第2番 op.31》の第4楽章や、
ベートーヴェンの《ソナタ第29番“ハンマークラヴィア”》など、
非常に難解な音楽だと思います。
特にベートーヴェンの方は、長大な45分かかる大曲・・・
弾くほうにとっても、
聴くほうにとっても
大変な音楽だと思います。
そうした「難解さ」、クラシック音楽の「敷居の高さ」を乗り越えて、
純粋な感覚として、リサイタルにおいて流れていた音楽に
「感動」していただけるというのは、演奏家冥利に尽きるます。
あの日、あの時に流れていた音楽が、大勢の皆様の心に残り、
ショパンの、ベートーヴェンの音楽が、人々の生きる力と
なってくださったのならば、嬉しく思います。
いやはや・・・
上記に「これ以上できない」らしき言葉を書いてしまいましたが、
そうではなく、そうは思わず、それ以上に
よりよい音楽活動をしていくよう、
これから先もずっと、精進してゆかなければなりません。
今後とも、
皆様のご支援・声援のほど、
よろしくお願いいたします。
(ブログランキングのクリックも m(_ _)m )
◆◇◆◇
あの日、あの舞台の上、
ベートーヴェン《ピアノソナタ“ハンマークラヴィア”》の
緩叙楽章である第3楽章において、
私は、神と、対話しました。
東京文化会館の小ホールにおいて、舞台の上からの眺めを初めて体験し、
ピアノを弾きながら、客席天井にはぼんやりと光が浮かび上がっていて、
神との対話の雰囲気を、自分の中では一層高めてくれる効果がありました。
(いつか文化会館小ホールへまた行かれることがありましたら、
会場が暗くなってから、客席の真上を見てみてください、
ぼんやりと、どなたかがいらっしゃっているように
見えるもしれませんよ!?)
神との対話・・・
これは大げさな、ほら吹きではなく、正直な気持ちです、
なぜなら、音楽が、きっと、そのような内容を
秘めたものであるから・・・
その証拠に、
愛読書ロマン・ロラン著『ベートーヴェンの生涯』には、
以下のような文章があり、それはまさしく、
今回の演奏会の内容・空気(私にとって、そしてきっと
会場にいらして下さった皆様にとっても)と
どこかしら合致するものであったのではと
思われるのです。こちらを引用し、今回の記事をしめたいと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
親愛なベートーヴェン!
彼の芸術家としての偉大さについては、
すでに十分に多くの人々がそれを賞賛した。
けれども彼は音楽家中の第一人者であるよりも
さらにはるかに以上の者である。
彼は近代芸術の中で最も雄々しい力である。
彼は、悩み戦っている人々の最大最善の友である。
世の悲惨によって我々の心が悲しめられているときに、
ベートーヴェンはわれわれの傍へ来る。
愛する者を失った喪神の中にいる一人の母親のピアノの前にすわって何もいわずに、
あきらめた嘆きの歌をひいて、泣いている婦人をなぐさめたように。
そしてわれわれが悪徳と道学とのいずれの側にもある凡俗さに抗しての
果てのない、効力の見えぬ戦いのために疲れるときに、
このベートーヴェンの意志と信仰との大海にひたることは、
いいがたい幸いの賜ものである。
彼から、
勇気と、たたかい努力することの幸福と、
そして自己の内奥に神を感じていることの
酔い心地とが感染して来るのである。
(ロマン・ロラン著『ベートーヴェンの生涯』より)
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2月23日(月)の夜に、東京文化会館における
ピアノ・ソロ・リサイタルを終えることが出来ました。
ご来場の皆様、応援下さった皆様に
深く御礼申し上げます。
日が少し経って、
あらためて、あの日の演奏会は自分にとっての、
時を追うごとに、大きなものであったことが実感されます。
同時に、
あのような演奏会は、
これからの自分の人生において
同じような密度の濃いものは・・・
そう簡単には出来ないのではないか!?
とすら、思われなくもありません・・・
あの日・あの場に持っていった
集中力なり、準備なり、気なり、etc...は、
自分の・身近な関係者の想像する以上に
大きなものだったのかもしれません。
それが、
少しは実になったのかな・・・?
ありがたいことに、大勢の方々から、
「感動した」という言葉をいただいており、
心よりうれしく思います。
あるいは
「なんだかよく分からなかったけれど、感動した」
「クラシックはよく分からないのだけれど、感動した」
というお言葉も聞こえてきて、
これは、音楽家にとっての、最も喜ばしい言葉として
受け取って良いものかもしれません。
ショパンの《ソナタ第2番 op.31》の第4楽章や、
ベートーヴェンの《ソナタ第29番“ハンマークラヴィア”》など、
非常に難解な音楽だと思います。
特にベートーヴェンの方は、長大な45分かかる大曲・・・
弾くほうにとっても、
聴くほうにとっても
大変な音楽だと思います。
そうした「難解さ」、クラシック音楽の「敷居の高さ」を乗り越えて、
純粋な感覚として、リサイタルにおいて流れていた音楽に
「感動」していただけるというのは、演奏家冥利に尽きるます。
あの日、あの時に流れていた音楽が、大勢の皆様の心に残り、
ショパンの、ベートーヴェンの音楽が、人々の生きる力と
なってくださったのならば、嬉しく思います。
いやはや・・・
上記に「これ以上できない」らしき言葉を書いてしまいましたが、
そうではなく、そうは思わず、それ以上に
よりよい音楽活動をしていくよう、
これから先もずっと、精進してゆかなければなりません。
今後とも、
皆様のご支援・声援のほど、
よろしくお願いいたします。
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◆◇◆◇
あの日、あの舞台の上、
ベートーヴェン《ピアノソナタ“ハンマークラヴィア”》の
緩叙楽章である第3楽章において、
私は、神と、対話しました。
東京文化会館の小ホールにおいて、舞台の上からの眺めを初めて体験し、
ピアノを弾きながら、客席天井にはぼんやりと光が浮かび上がっていて、
神との対話の雰囲気を、自分の中では一層高めてくれる効果がありました。
(いつか文化会館小ホールへまた行かれることがありましたら、
会場が暗くなってから、客席の真上を見てみてください、
ぼんやりと、どなたかがいらっしゃっているように
見えるもしれませんよ!?)
神との対話・・・
これは大げさな、ほら吹きではなく、正直な気持ちです、
なぜなら、音楽が、きっと、そのような内容を
秘めたものであるから・・・
その証拠に、
愛読書ロマン・ロラン著『ベートーヴェンの生涯』には、
以下のような文章があり、それはまさしく、
今回の演奏会の内容・空気(私にとって、そしてきっと
会場にいらして下さった皆様にとっても)と
どこかしら合致するものであったのではと
思われるのです。こちらを引用し、今回の記事をしめたいと思います。
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親愛なベートーヴェン!
彼の芸術家としての偉大さについては、
すでに十分に多くの人々がそれを賞賛した。
けれども彼は音楽家中の第一人者であるよりも
さらにはるかに以上の者である。
彼は近代芸術の中で最も雄々しい力である。
彼は、悩み戦っている人々の最大最善の友である。
世の悲惨によって我々の心が悲しめられているときに、
ベートーヴェンはわれわれの傍へ来る。
愛する者を失った喪神の中にいる一人の母親のピアノの前にすわって何もいわずに、
あきらめた嘆きの歌をひいて、泣いている婦人をなぐさめたように。
そしてわれわれが悪徳と道学とのいずれの側にもある凡俗さに抗しての
果てのない、効力の見えぬ戦いのために疲れるときに、
このベートーヴェンの意志と信仰との大海にひたることは、
いいがたい幸いの賜ものである。
彼から、
勇気と、たたかい努力することの幸福と、
そして自己の内奥に神を感じていることの
酔い心地とが感染して来るのである。
(ロマン・ロラン著『ベートーヴェンの生涯』より)
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