こちらのブログに色々と書き連ねて
幾ばくかの年月が経っております。
色々と書きながら、
お読みになられる方々にはなんとなくお気づきかと思われますが、
「音楽」について色々と書きながら、
その内容が「死」について言及されることは少なくありません。
なんとも湿っぽい話です・・・
しかし、
改めてこのことを考えてみて、
これはもしかすると、やはり
クラシック音楽を追求する者としては
そうあって然るべきことなのかもしれない、
と、
ふと思ったのです。
「音楽」を「死」と結びつけて考える、
このようなアイディアは、きっと私の場合、
3年前(もう3年も経っちゃった)にドイツにて
ベートーヴェン《ピアノソナタ》全32曲の演奏会を成し遂げた時、
当然、ベートーヴェン後期の作《op.106》《op.109》《op.110》《op.111》
などを連ねて面と向かい合い、そして
ついに最後のソナタ《op.111》にて、
魂が昇華されゆく姿を見たような気がした時、
これらの偉大な人類の芸術作品は、
我々人間が皆、必ずや迎える「死」という現実を
「芸術」という「人間の鏡」を通して考え・感じさせてくれる
内容の濃く、心に染み渡り、深い感動を催させてくれる音楽となっているように
思えた時からのように思い出されます。
昨夜、
ルーテル市ヶ谷ホールにて、
フルートとのデュオ・コンサートを
お蔭様で終了することが出来、
最後の曲となるブラームス《ソナタop.120-2》では、
やはり舞台の上でも、(ルーテル市ヶ谷は教会でもあるので、
頭上には十字架がぶらさがっており、これがまた気分を増長させてくれます)
ブラームスの描いた魂の昇華する様を
実地でも実感しながら、演奏できたかもしれません。
もしももしも、
会場にいらして下さった皆様方に、
この難解な音楽を、退屈せずに聴いていただけたのなら、
きっとそれは、我々のこの音楽に対する解釈が
あながち間違ってはいないことが証明されたと
言えるのかもしれません。
練習を積み重ねながら、二人で時に涙をこらえきれず向き合ったこの音楽には、
巨匠ブラームスの、寸分の無駄なく創られた「和声音楽」の確固たる裏づけの元、
クラシック音楽の持つ至高の芸術性、すなわち「生死」という課題が
我々人間にもたらしてくれる感動を約束してくれるところが
あると言えるのかもしれません。
・・・それにしても、
生死の問題は、良い悪い、ポジティブ・ネガティブと
単純に分けられるものでないことも、
クラシック音楽は教えてくれているようです。
希望に満ちた平安な来世を予言してくれるベートーヴェンの後期
●《ピアノソナタop.111》や、
●《ディアベリ変奏曲op.120》や、
ブラームスの今回演奏させていただいた作品
●《クラリネットソナタop.120-2》
が
あると思いきや、
片や、悲劇的な終わりを予感させる作品といえば、
同じくブラームスでは、最後のピアノ独奏作品
◆《ピアノ曲集op.119》の終曲《Rhapsodie狂詩曲》や、
思い出されますのは、チャイコフスキーの最後の交響曲
◆《シンフォニー第6番 op.74“悲愴”》
といった作品があります・・・
さらに思い出されますのは、音楽作品ではありませんが、
ポジティブな最後をたくさん書いたベートーヴェンたれど、
なんと臨終の床で言った最後の言葉は、
Applaus Freunde, die Komoedie ist vorbei
喝采せよ諸君、喜劇は過ぎ去った
と・・・ベートーヴェンにとって
彼の人生とその作品群は「喜劇」だったというのでしょうか!?
・・・人の生死は、今を生きる我々にとっては
きっと尽きることのない未知の事柄なのかもしれません。
これは諸行無常で、色即是空 空即是色であって、中道の真理なのかもしれません。
クラシック音楽は、上記しました仏教の教えとは別次元に、
これに非常に近く似た境地に達しているのかもしれません。
この記事の冒頭には、自分で「まじめで一生懸命な音楽家」なぞと
おバカな自負をしてしまいましたが、
でも、音楽がそのようにさせるのです、きっと、だから、
この先もきっとしばらく、このような方向の思索は続くのかもしれません。
ひとつのコンサートが終わった後は、
なんだか変な記事を書いてしまう習性があるようで
我ながら少々恥ずかしくもあるのですが・・・
この場をお借りしまして、
ご来場くださった皆様に御礼申し上げつつ、
今宵も少々酔っている、
と言い訳をさせてください。
本当にどうもありがとうございました。
幾ばくかの年月が経っております。
色々と書きながら、
お読みになられる方々にはなんとなくお気づきかと思われますが、
「音楽」について色々と書きながら、
その内容が「死」について言及されることは少なくありません。
なんとも湿っぽい話です・・・
しかし、
改めてこのことを考えてみて、
これはもしかすると、やはり
クラシック音楽を追求する者としては
そうあって然るべきことなのかもしれない、
と、
ふと思ったのです。
「音楽」を「死」と結びつけて考える、
このようなアイディアは、きっと私の場合、
3年前(もう3年も経っちゃった)にドイツにて
ベートーヴェン《ピアノソナタ》全32曲の演奏会を成し遂げた時、
当然、ベートーヴェン後期の作《op.106》《op.109》《op.110》《op.111》
などを連ねて面と向かい合い、そして
ついに最後のソナタ《op.111》にて、
魂が昇華されゆく姿を見たような気がした時、
これらの偉大な人類の芸術作品は、
我々人間が皆、必ずや迎える「死」という現実を
「芸術」という「人間の鏡」を通して考え・感じさせてくれる
内容の濃く、心に染み渡り、深い感動を催させてくれる音楽となっているように
思えた時からのように思い出されます。
昨夜、
ルーテル市ヶ谷ホールにて、
フルートとのデュオ・コンサートを
お蔭様で終了することが出来、
最後の曲となるブラームス《ソナタop.120-2》では、
やはり舞台の上でも、(ルーテル市ヶ谷は教会でもあるので、
頭上には十字架がぶらさがっており、これがまた気分を増長させてくれます)
ブラームスの描いた魂の昇華する様を
実地でも実感しながら、演奏できたかもしれません。
もしももしも、
会場にいらして下さった皆様方に、
この難解な音楽を、退屈せずに聴いていただけたのなら、
きっとそれは、我々のこの音楽に対する解釈が
あながち間違ってはいないことが証明されたと
言えるのかもしれません。
練習を積み重ねながら、二人で時に涙をこらえきれず向き合ったこの音楽には、
巨匠ブラームスの、寸分の無駄なく創られた「和声音楽」の確固たる裏づけの元、
クラシック音楽の持つ至高の芸術性、すなわち「生死」という課題が
我々人間にもたらしてくれる感動を約束してくれるところが
あると言えるのかもしれません。
・・・それにしても、
生死の問題は、良い悪い、ポジティブ・ネガティブと
単純に分けられるものでないことも、
クラシック音楽は教えてくれているようです。
希望に満ちた平安な来世を予言してくれるベートーヴェンの後期
●《ピアノソナタop.111》や、
●《ディアベリ変奏曲op.120》や、
ブラームスの今回演奏させていただいた作品
●《クラリネットソナタop.120-2》
が
あると思いきや、
片や、悲劇的な終わりを予感させる作品といえば、
同じくブラームスでは、最後のピアノ独奏作品
◆《ピアノ曲集op.119》の終曲《Rhapsodie狂詩曲》や、
思い出されますのは、チャイコフスキーの最後の交響曲
◆《シンフォニー第6番 op.74“悲愴”》
といった作品があります・・・
さらに思い出されますのは、音楽作品ではありませんが、
ポジティブな最後をたくさん書いたベートーヴェンたれど、
なんと臨終の床で言った最後の言葉は、
Applaus Freunde, die Komoedie ist vorbei
喝采せよ諸君、喜劇は過ぎ去った
と・・・ベートーヴェンにとって
彼の人生とその作品群は「喜劇」だったというのでしょうか!?
・・・人の生死は、今を生きる我々にとっては
きっと尽きることのない未知の事柄なのかもしれません。
これは諸行無常で、色即是空 空即是色であって、中道の真理なのかもしれません。
クラシック音楽は、上記しました仏教の教えとは別次元に、
これに非常に近く似た境地に達しているのかもしれません。
この記事の冒頭には、自分で「まじめで一生懸命な音楽家」なぞと
おバカな自負をしてしまいましたが、
でも、音楽がそのようにさせるのです、きっと、だから、
この先もきっとしばらく、このような方向の思索は続くのかもしれません。
ひとつのコンサートが終わった後は、
なんだか変な記事を書いてしまう習性があるようで
我ながら少々恥ずかしくもあるのですが・・・
この場をお借りしまして、
ご来場くださった皆様に御礼申し上げつつ、
今宵も少々酔っている、
と言い訳をさせてください。
本当にどうもありがとうございました。