ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

巡業

2007年08月11日 | Weblog


相変わらず「朝青龍」問題で、スポーツ紙が賑わって
いる。
本当に鬱状態なのか今ひとつ疑問なのだが、こういう
事態にした責任は、どう考えても協会にあるのだろう
と思う。
放任のツケが回ってきただけのことではないか。
元々「品位」が欠けると言われてきた横綱を、その状
態で野放しにしてきて、ここに来て急に厳しい措置を
取ろうとしても、横綱からすれば、何で唐突にこんな
いじめのようなことを、と思ってしまっても不思議で
はない。
それに、協会の強気な態度も裏がありそうだ。
つまり、問題横綱であっても、人気面から見れば価値
があった「朝青龍」。
要するに、今までは大事な商品としての「朝青龍」の
ご機嫌を窺う弱い立場だった協会が、新たな商品「白
鳳」の出現によって、相対的に価値のなくなった「朝
青龍」に対して手のひらを返したのである。

朝青龍の基本的な考えは「強くさえあれば良い」であ
ろう(八百長問題は、とりあえず置いといて)。
様式、儀式性よりは格闘技としての勝負、飽くまでも
スポーツとしての相撲。
方や協会は、日本の伝統的国技としての精神性を体現
するのが「横綱」(実際は全然違うと思うが)、と言
いたいのではないか。
ところが現実は、国際化と共に、日本人より強い力士
が誕生し、誕生したはいいが、その日本の国技として
の相撲の精神性を教え込まなかった、というより教え
られなかった。
何故かと言えば、そんなものはないから。
日本の中で暮らしていると、なくてもあるかのように
思えるので、儀式をすることによって立派な演者にな
れた(外見上は)。
しかし、共通の文化がない外人力士には、それを一か
ら教えないといけない。
数学と違い、客観的で具体的でない「精神性」をどう
やって教えられるか、歴史の中で初めてのできごとだ
から、ノウハウもない。
結局、今回のような事になってしまうのだ。

やはり、「伝統芸としての相撲」を保存。
相撲が相撲であるためにはそうやるしかないのではな
いか。
国際化すればするほど、伝統的な魅力はなくなるのだ
から、鎖国化。
これが一番。
しかしそうなったらそうなったで、今度は日本人の継
承者がいないという事態になることはまず間違いない。
どちらにしろ問題は不可避なのだと思う。
一言で言えば、時代にそぐわない競技ということか。
ここまで書いてきてなんだが、本心からするとどっち
でもいい。
結局、相撲に対しては大して興味がないのだった(な
んとも無責任ではあるが)。
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