殉死, 司馬遼太郎, 文春文庫 し-1-37, 1978年
・"軍神" 乃木希典の生涯を小説風にまとめた書。『要塞』、『腹を切ること』と題した小編の二部構成。
・その名は度々目にしていたが、どのような人物なのかほとんど知らずにいたところ、ボンヤリとしていた知識がクッキリと明確になった。日露戦争における旅順攻防戦の悲惨な戦場の描写が強く印象に残る。
・「乃木希典(のぎまれすけ)――日露戦争で苦闘したこの第三軍司令官、陸軍大将は、輝ける英雄として称えられた。戦後は伯爵となり、学習院院長、軍事参議官、宮内省御用掛など、数多くの栄誉を一身に受けた彼が明治帝の崩御に殉じて、その妻とともにみずからの命を断ったのはなぜか。"軍神" の内面に迫って、人間像を浮き彫りにした問題作。」カバー
・「乃木希典は本来が実務家よりも詩人であるために、つねに自分を悲壮美の中に置き、劇中の人として見ることができた。自分の不運に自分自身が感動できるというのは、どういう体質であろう。」p.21
・「余談だが、この時期、一般の感覚としては――山県有朋でさえ――軍旗はさほど尊貴なものとはしていなかったであろう。第二次大戦での降伏によって日本陸軍は終焉したが、いわゆる帝国陸軍の特徴のひとつは軍旗を異常に神聖視し、あたかもそこに天皇の神聖霊が宿っているがごとくあつかったことであった。この精神的習慣はおそらく乃木希典から始まったであろう。」p.22
・「その感情は、後になるにしたがって明治帝にも自然通じてゆき、明治帝にとっても乃木希典がまるで鎌倉時代の郎党であるかのような、そういう実感をもつようになり、そのことが乃木にも伝わり、乃木を感動させ、かれをして近代日本のなかでは稀有といっていい古典的忠臣にしていった。」p.23
・「「貴官は、いつ軍服をぬぎます」 と、乃木はデュフェに質問したであろう。 「寝ニ至ルマデ脱ガズ」 と、デュフェは答えたにちがいない。」p.32
・「が、乃木少将だけは一変した。紬の着物も着ず角帯も締めず、料亭の出入はいっさいやめ、日常軍服を着用し、帰宅しても脱がず、寝るときも――乃木式といわれ、死にいたるまでひとを驚嘆せしめたことだが――寝巻を用いず、軍服のままでいた。」p.34
・「「自分の生涯は、山田の案山子である」と、しばしばこの時期での乃木希典は洩らしている。」p.35
・「乃木希典はおそらく筆者(わたくし)の考えていたような、自分の能力に疑いをもつというようなことは、あるいはなかったかもしれない。そのように考えを修正してみると、筆者の私(ひそ)やかな期待ははずれたにしても、別な乃木希典をあらたに知る思いがし、なおこの書きものを(いや、思考を)続けてゆく気持をとりなおした。」p.37
・「要するに司令官と参謀長の関係は、そのような機能関係にあり、すぐれた参謀長を得れば司令官はねむっていても作戦は進行してゆく。」p.50
・「が、旅順は一日でおちなかった。それどころか、その後百五十余日をついやし、六万人の血を流させるはめになった。目算をこれほど外すというのは、それが無能のゆえであるとすれば、これほど悲惨な無能もないであろう。」p.61
・「乃木はもともと死のなかに唯一の華やぎを求める思想家――それも士規七則的な――であり、死を美として感じてはじめて自分の生を肯定できる底の行者であったが、この旅順の柳樹房のときほど死への焦れをもったことはなかったであろう。」p.72
・「乃木のその誌的生涯が日本国家へ貢献した最大のものは、水師営における登場であったであろう。かれによって日本人の武士道的映像が、世界に印象された。」p.92
・「死は自然死であってはならないという、不可思議な傾斜が乃木希典においてはじまったのは、よほど年歴がふるい。かれは最後にその意思的な死を完成させるのだが、むしろこの傾斜がかれの生きつづけてゆく姿勢を単純勁烈にささえていたともいえるのではないか。」p.99
・「自分を自分の精神の演者たらしめ、それ以外の行動はとらない、という考え方は明治以前までうけつがれてきたごく特殊な思想のひとつであった。希典はその系譜の末端にいた。いわゆる陽明学派というものであり、江戸幕府はこれを危険思想とし、それを異学とし、学ぶことをよろこばなかった。この思想は江戸期の官学である朱子学のように物事に客観的態度をとり、ときに主観をもあわせつつ物事を合理的に格物致知してゆこうという立場のものではない。陽明学派にあってはおのれが是と感じ真実と信じたことこそ絶対真理であり、それをそのようにおのれが知った以上、精神に火を点じなければならず、行動をおこさねばならず、行動をおこすことによって思想は完結するのである。」p.110
・「かれら陸海軍将星の軍服は当然ながらすべて拝謁のための美麗な礼服を着用していた。しかしながら乃木希典のみは泥と硝煙のしみついた戦闘服のまま帝の前に立っていた。このあたりが乃木希典のふしぎさであろう。広島の宇品に凱旋してからすでに四日になり、服を着かえる余裕は十分にあった。しかしながらかれは戦闘服のままでいた。 ――戦場からすぐ駆けつけた。 というところをこの郎党は帝にお見せしたかったのであろう。」p.126
?じゅんじゅ【純儒・醇儒】 真の儒者。
?ろぼ【鹵簿】 儀仗を具備した行幸・行啓の行列。律令制では、行幸のみにいったが、明治以後は、行啓にもいい、公式のものと略式のものとがある。
?きっきゅう‐じょ【鞠躬如】 身をかがめおそれつつしむさま。
・"軍神" 乃木希典の生涯を小説風にまとめた書。『要塞』、『腹を切ること』と題した小編の二部構成。
・その名は度々目にしていたが、どのような人物なのかほとんど知らずにいたところ、ボンヤリとしていた知識がクッキリと明確になった。日露戦争における旅順攻防戦の悲惨な戦場の描写が強く印象に残る。
・「乃木希典(のぎまれすけ)――日露戦争で苦闘したこの第三軍司令官、陸軍大将は、輝ける英雄として称えられた。戦後は伯爵となり、学習院院長、軍事参議官、宮内省御用掛など、数多くの栄誉を一身に受けた彼が明治帝の崩御に殉じて、その妻とともにみずからの命を断ったのはなぜか。"軍神" の内面に迫って、人間像を浮き彫りにした問題作。」カバー
・「乃木希典は本来が実務家よりも詩人であるために、つねに自分を悲壮美の中に置き、劇中の人として見ることができた。自分の不運に自分自身が感動できるというのは、どういう体質であろう。」p.21
・「余談だが、この時期、一般の感覚としては――山県有朋でさえ――軍旗はさほど尊貴なものとはしていなかったであろう。第二次大戦での降伏によって日本陸軍は終焉したが、いわゆる帝国陸軍の特徴のひとつは軍旗を異常に神聖視し、あたかもそこに天皇の神聖霊が宿っているがごとくあつかったことであった。この精神的習慣はおそらく乃木希典から始まったであろう。」p.22
・「その感情は、後になるにしたがって明治帝にも自然通じてゆき、明治帝にとっても乃木希典がまるで鎌倉時代の郎党であるかのような、そういう実感をもつようになり、そのことが乃木にも伝わり、乃木を感動させ、かれをして近代日本のなかでは稀有といっていい古典的忠臣にしていった。」p.23
・「「貴官は、いつ軍服をぬぎます」 と、乃木はデュフェに質問したであろう。 「寝ニ至ルマデ脱ガズ」 と、デュフェは答えたにちがいない。」p.32
・「が、乃木少将だけは一変した。紬の着物も着ず角帯も締めず、料亭の出入はいっさいやめ、日常軍服を着用し、帰宅しても脱がず、寝るときも――乃木式といわれ、死にいたるまでひとを驚嘆せしめたことだが――寝巻を用いず、軍服のままでいた。」p.34
・「「自分の生涯は、山田の案山子である」と、しばしばこの時期での乃木希典は洩らしている。」p.35
・「乃木希典はおそらく筆者(わたくし)の考えていたような、自分の能力に疑いをもつというようなことは、あるいはなかったかもしれない。そのように考えを修正してみると、筆者の私(ひそ)やかな期待ははずれたにしても、別な乃木希典をあらたに知る思いがし、なおこの書きものを(いや、思考を)続けてゆく気持をとりなおした。」p.37
・「要するに司令官と参謀長の関係は、そのような機能関係にあり、すぐれた参謀長を得れば司令官はねむっていても作戦は進行してゆく。」p.50
・「が、旅順は一日でおちなかった。それどころか、その後百五十余日をついやし、六万人の血を流させるはめになった。目算をこれほど外すというのは、それが無能のゆえであるとすれば、これほど悲惨な無能もないであろう。」p.61
・「乃木はもともと死のなかに唯一の華やぎを求める思想家――それも士規七則的な――であり、死を美として感じてはじめて自分の生を肯定できる底の行者であったが、この旅順の柳樹房のときほど死への焦れをもったことはなかったであろう。」p.72
・「乃木のその誌的生涯が日本国家へ貢献した最大のものは、水師営における登場であったであろう。かれによって日本人の武士道的映像が、世界に印象された。」p.92
・「死は自然死であってはならないという、不可思議な傾斜が乃木希典においてはじまったのは、よほど年歴がふるい。かれは最後にその意思的な死を完成させるのだが、むしろこの傾斜がかれの生きつづけてゆく姿勢を単純勁烈にささえていたともいえるのではないか。」p.99
・「自分を自分の精神の演者たらしめ、それ以外の行動はとらない、という考え方は明治以前までうけつがれてきたごく特殊な思想のひとつであった。希典はその系譜の末端にいた。いわゆる陽明学派というものであり、江戸幕府はこれを危険思想とし、それを異学とし、学ぶことをよろこばなかった。この思想は江戸期の官学である朱子学のように物事に客観的態度をとり、ときに主観をもあわせつつ物事を合理的に格物致知してゆこうという立場のものではない。陽明学派にあってはおのれが是と感じ真実と信じたことこそ絶対真理であり、それをそのようにおのれが知った以上、精神に火を点じなければならず、行動をおこさねばならず、行動をおこすことによって思想は完結するのである。」p.110
・「かれら陸海軍将星の軍服は当然ながらすべて拝謁のための美麗な礼服を着用していた。しかしながら乃木希典のみは泥と硝煙のしみついた戦闘服のまま帝の前に立っていた。このあたりが乃木希典のふしぎさであろう。広島の宇品に凱旋してからすでに四日になり、服を着かえる余裕は十分にあった。しかしながらかれは戦闘服のままでいた。 ――戦場からすぐ駆けつけた。 というところをこの郎党は帝にお見せしたかったのであろう。」p.126
?じゅんじゅ【純儒・醇儒】 真の儒者。
?ろぼ【鹵簿】 儀仗を具備した行幸・行啓の行列。律令制では、行幸のみにいったが、明治以後は、行啓にもいい、公式のものと略式のものとがある。
?きっきゅう‐じょ【鞠躬如】 身をかがめおそれつつしむさま。