私は「ヒポクラテスの誓い」は西欧の「医の倫理」の考え方で,日本人にはあまり影響を及ぼしていないと思いこんでいました.このため病棟実習の際,学生と一緒に「ヒポクラテスの誓い」を読んだあと,日本の場合と話して,緒方洪庵先生による「扶氏医戒の略(ドイツの医師フーフェランドの内科学書の蘭語訳書を日本語に翻訳したもの)」の講義をしていました.
最近,日本の神経学を築いた冲中重雄先生の著書「医師の心(東京大学出版会,1978)(図1左)」を読みました.先日の「ルリモハリモ・・・」の記事で,岩田誠先生や馬場正之先生から冲中先生とのエピソードを伺い,関心を持ったためです.本書は冲中先生の思索や講演をまとめた散文集で,日本の神経学がいかにして成立したか,その過程についても書かれており勉強になりました.
本書で大変驚いたことが2つありました.第1は,ヒポクラテスと「医の倫理」に関する文章が3つもあったことです.冲中先生が「ヒポクラテスの誓い」を重視していたことが分かります.臨床医の勤めとして最も大切なことは,第一に「医の倫理を守ること」,そして「患者さんから学ぶという心構え」である,と強調されています.そして米国の医学部では卒業生に対し,「ヒポクラテスの誓い」を宣誓させたあと,学位を授ける習わしになっていることを紹介し,単に医学に対する知識と技能とを証明するだけでは不十分で,医師の道徳的,人間的責任についての覚悟が重要と指摘しています.
第2は「ヒポクラテスが名哲であることが初めて日本人に知られたのは1749年頃であり,ターヘル・アナトミカが杉田玄白により日本に紹介された頃,すでにヒポクラテスは日本で偉人として尊敬され始めていた」と書かれ,冒頭で述べた私の認識が誤りであったことです.沖中先生は,緒方富雄博士(東京大学医学部名誉教授.緒方洪庵の曾孫)の研究を紹介されています.古書店でその著書「日本におけるヒポクラテス賛美 : 日本のヒポクラテス画像と賛の研究序説(日本医事新報社,昭和46年)(図1右)」を入手すると,それは日本で描かれたヒポクラテス画と画賛(絵画の上部の空白に書き込んだ詩文)を集めた大変立派な本でした!
それによるとヒポクラテスを初めて知ったのは蘭学医たちで,大槻玄沢(1757~1821)はコルネイキという人の本の中でヒポクラテス画を見て感動し,洋風画家石川大浪(1765~1817)に模写を依頼し,日本初のヒポクラテス画(1799)が描かれました.図2左のように禿頭でヒゲのゆたかな老人が左横に向いていて,指をゆるやかに開いた右手が見えているのが特徴です.日本人の描いたヒポクラテス画の中でもっとも多い図柄です.「日本脳外科の父」中田瑞穂先生の書かれたヒポクラテス画のスケッチ(考古堂書店.非売品)のなかにも,大浪の作品を模写したものがあることに気がつきました(図2右).
ほかにも8点の優れたヒポクラテス画を遺した桂川甫賢(1797-1844)の作品の表情も印象的でした(図3).
本書には非常にたくさんのヒポクラテス画や画賛が収められていました.日本の蘭学医はこれらを拝し,神格化して祭ったようです.「日本人に強く根ざしている祖先崇拝の心の表れと考えてよく,自分の奉ずる西洋医学の本質を忘れず,心を引き締め,また心の支えとした」と緒方先生は書かれています.ヒポクラテスが,日本における近代科学の黎明期以来,日本の文化に影響を与えていたことを初めて学ぶとともに,冲中先生が重視した「医の倫理」に関する教育の大切さをあらためて認識しました.
最近,日本の神経学を築いた冲中重雄先生の著書「医師の心(東京大学出版会,1978)(図1左)」を読みました.先日の「ルリモハリモ・・・」の記事で,岩田誠先生や馬場正之先生から冲中先生とのエピソードを伺い,関心を持ったためです.本書は冲中先生の思索や講演をまとめた散文集で,日本の神経学がいかにして成立したか,その過程についても書かれており勉強になりました.
本書で大変驚いたことが2つありました.第1は,ヒポクラテスと「医の倫理」に関する文章が3つもあったことです.冲中先生が「ヒポクラテスの誓い」を重視していたことが分かります.臨床医の勤めとして最も大切なことは,第一に「医の倫理を守ること」,そして「患者さんから学ぶという心構え」である,と強調されています.そして米国の医学部では卒業生に対し,「ヒポクラテスの誓い」を宣誓させたあと,学位を授ける習わしになっていることを紹介し,単に医学に対する知識と技能とを証明するだけでは不十分で,医師の道徳的,人間的責任についての覚悟が重要と指摘しています.
第2は「ヒポクラテスが名哲であることが初めて日本人に知られたのは1749年頃であり,ターヘル・アナトミカが杉田玄白により日本に紹介された頃,すでにヒポクラテスは日本で偉人として尊敬され始めていた」と書かれ,冒頭で述べた私の認識が誤りであったことです.沖中先生は,緒方富雄博士(東京大学医学部名誉教授.緒方洪庵の曾孫)の研究を紹介されています.古書店でその著書「日本におけるヒポクラテス賛美 : 日本のヒポクラテス画像と賛の研究序説(日本医事新報社,昭和46年)(図1右)」を入手すると,それは日本で描かれたヒポクラテス画と画賛(絵画の上部の空白に書き込んだ詩文)を集めた大変立派な本でした!
それによるとヒポクラテスを初めて知ったのは蘭学医たちで,大槻玄沢(1757~1821)はコルネイキという人の本の中でヒポクラテス画を見て感動し,洋風画家石川大浪(1765~1817)に模写を依頼し,日本初のヒポクラテス画(1799)が描かれました.図2左のように禿頭でヒゲのゆたかな老人が左横に向いていて,指をゆるやかに開いた右手が見えているのが特徴です.日本人の描いたヒポクラテス画の中でもっとも多い図柄です.「日本脳外科の父」中田瑞穂先生の書かれたヒポクラテス画のスケッチ(考古堂書店.非売品)のなかにも,大浪の作品を模写したものがあることに気がつきました(図2右).
ほかにも8点の優れたヒポクラテス画を遺した桂川甫賢(1797-1844)の作品の表情も印象的でした(図3).
本書には非常にたくさんのヒポクラテス画や画賛が収められていました.日本の蘭学医はこれらを拝し,神格化して祭ったようです.「日本人に強く根ざしている祖先崇拝の心の表れと考えてよく,自分の奉ずる西洋医学の本質を忘れず,心を引き締め,また心の支えとした」と緒方先生は書かれています.ヒポクラテスが,日本における近代科学の黎明期以来,日本の文化に影響を与えていたことを初めて学ぶとともに,冲中先生が重視した「医の倫理」に関する教育の大切さをあらためて認識しました.