人力でGO

経済の最新情勢から、世界の裏側、そして大人の為のアニメ紹介まで、体当たりで挑むエンタテーメント・ブログ。

頭突き一発、理屈が引っ込む!!・・・「灼眼のシャナ」が名作たるゆえん

2012-03-25 03:54:00 | アニメ
 

本日はオタクの独り言です。
「灼眼のシャナ」をご存知無い方は、読まれないように!!


 



■ 「頭突き一発」で「灼眼のシャナ」は名作になった ■

たった一話の脚本の力が、これ程までとは・・・

アニメを何十年と見続けてきましたが、
「灼眼のシャナⅢ」の最終話の小林靖子の脚本には唖然とします。



「灼眼のシャナ」は中高生に大人気のライトノベルです。
この世と対を成す世界「紅世」から訪れる存在「紅世の徒(ともがら)」と、
それを滅する存在の「フレイムヘイズ」の戦いを描いたこの作品は
原作本22巻を掛けた「存在回復」の、壮大なストーリーです。

「未成熟であるという意味・・・ライトノベルの魅力」(人力でGO 2011.11.20)
http://green.ap.teacup.com/pekepon/584.html

この作品のアニメ版がこの度、最終回を迎えました。
原作もアニメも、ベストセラー故に不必要に引き伸ばされた感がありましたが、
壮大に広げられた作品世界という大風呂敷を、
どうやって畳むのか、非常に興味深くアニメ版を見ていました。

「頭突き一発」です・・・・。

エ?!、何それ?・・・とお思いでしょう。
「灼眼のシャナ」はその複雑に入り組んだ作品世界を
主人公シャナの「頭突き一発」で見事に収束させてしまったのです。

■ 集団で戦う事で全く魅力を失った作品世界 ■

「坂井悠二」は真面目な男です。
シャナをひたすら思う彼は、
「フレイムヘイズ」と「紅世の徒」が戦わなくても良い世界を願っています。

その為に創造神・祭礼の蛇と一体化し、敵対する「紅世の徒」の王となり、
フレイムヘイズに互いの存亡を掛けた戦いを挑みます。

幾千、幾万の徒達やフレイムヘイズの犠牲の上に、
彼は「この世」と「紅世」の間にもう一つの世界「ザナドゥー」を造り出します。

「フレイムヘイズ」に狩られる事無く、平和に人間の存在の力を狩れる「ザナドゥー」は
「紅世の徒」達にとっては、正に楽園と言えます。

一方、フレイムヘイズは正義ではありません。
この世と紅世のバランスを保つ存在である彼らは、
人の命など一顧にする事はありません。
彼らの関心は、世の秩序だけです。
徒達があまりに多くの存在の力を狩ると、
この世と紅世のバランスが崩れるので、
徒達の数を調整するのがフレイムヘイズです。

ですから「ザナドゥ」という新たな存在が、
この世と紅世にどの様な影響を与えるか分からないだけに、
フレイムヘイズは「ザナドゥ」建設を断固阻止するのです。

「紅の徒」と「フレイムヘイズ」は徒党を組んで正面衝突します。
これは戦争です。

ところが、「徒党を組んで戦う」事は、
徒とフレイムヘイズのアイデンティティーを著しく損ないます。

人の存在のはるか高みに存在する、
言わば、神や精霊にも似た存在の両者は、
本来は人の感情を持ちえません。

人の生き死になどは、ハナから無頓着なだけでなく
徒同士や、フレイムヘイズ同士ですら、仲間という意識など無いのです。
利害が対立すれば、徒同士、フレイムヘイズ同士も闘います。

そんな一種人知の外にある存在である「シャナ」が
人間「坂井悠二」との接触の中で、どう人の感情を獲得し理解するかが
この作品の一番の見所でした。

ですから、「シャナ」が「デレる」前のアニメ第一期が、最も魅力的な作品でした。

ところが、敵である「紅の徒」もバルマスケという一団を無し、
対するフレイムヘイズも「シャナと仲間達」が共闘するアニメ第2期は、
既に「シャナ」の魅力は半減しています。

そして、お互いの勢力が何千、何万と団結して組織立って戦うアニメ3期は
はっきり言って、見るに耐えない作品でした。
これでは、「人対人」の普通の世界の話と何ら変わりません。

シリーズを重ねる毎に、作品世界が変容してしまう事は、
ライトノベルや漫画では仕方の無い事です。
敵がいつのまにか味方になっていたなんていうのは、
ジャンプの漫画では当たり前の展開です。

しかし、シャナの世界の魅力は、
「シャナ」と「悠二」の価値観のすれ違いですから
フレイムヘイズ同士、紅の徒同士が馴れ合って戦う姿は、
作品が持っている魅力を著しく損なう事になります。

■ ただひたすら殺戮を繰り返す「正義」 ■

「シャナ」が他の凡百の作品と一線を画すのは、
正義の側であるフレイムヘイズが、
容赦ない殺戮を紅の徒に対して行う事です。

「大地の四神」をはじめ、力を持つフレイムヘイズたちは、
徒達を容赦無く殺しつくします。

目的は「ザナドゥ」に向う徒達に
「人を喰らう事の代償としての恐怖を植えつける」事。

徒の楽園であるはずに「ザナドゥ」に根源的な恐怖を植えつける事で
徒達が、新世界で無節操に人の存在の力を喰らう事に歯止めを掛けようというのです。

これは、論理的に疑問を感じる設定です。
フレイムヘイズの居ない世界では、徒達に脅威は存在しません。
恐怖の記憶は、前の世界の神話であって、
現実に新世界に渡った徒達は、やりたい放題で人の存在の力を食らうはずです。

ただフレイムヘイズによる「圧倒的な殺戮」は、
フレイムヘイズが「神」に近い存在ではあるが、
人にとっても、世界にとっても「正義」で無い事を思い出させます。
彼らは、バランサーとして相対的価値観の上に立っています。
そこには「絶対的正義」などは微塵も存在していないのです。

ここにおいて「紅の徒」と「フレイムヘイズ」の善悪は非常に不明確です。
「紅の徒」を率いる「坂井悠二」に憑依した「祭礼の蛇」は「創造神」と呼ばれます。
一方、シャナに憑依する「紅の王」は、
「天上の劫火」と呼ばれる「天罰神」言わば「破壊神」です。

人間の存在の力を狩るが故に、視聴者には「悪」と見える「紅世の徒」は
意外にもこの世を作った「神」に近い存在だったのです。
いえ、「神とは「創造」と「破壊」の一対の存在」という方が正しいのかもしれません。

■ 悪役?バルマスケこそが素晴らしい ■

これらの神々のモデルは西洋の「善悪」の対立の上に立つ神では無く、
ヒンドゥ教の神々や、ギリシャ神話の神々に近い、多神教の神です。
ですから、人知を超えた存在でありながら、非常に人間的でもあります。
「創造神・祭礼の蛇」に至っては、特にいい加減な性格で、
「坂井悠二」が腹に一物を抱いている事すら意に介しません。
新世界が出来れば、その細部には大した拘りは持っていないのです。

そして「創造神」をサポートする「紅世の王」達が「バルマスケ」です。

アニメ第2期は、「バルマスケ」とシャナ達の戦いを描いたシリーズで、
バルマス家は、「創造神」の復活を掛けてシャナ達と戦います。
このシリーズでは、バルマスケは「邪神」を崇拝する「悪」として描かれます。

ところが復活した「邪神」が、むしろ「創造」を司る事から、
「バルマスケ」=「悪」という図式も崩れ去ります。



特に3期目の後半での「千変・シュドナイ」の行動は、
世の理の変化に抵抗するだけのフレイムヘイズとは対照的です。
一種、男の美学に貫かれているとも言えます。

彼が従う「創造神・祭礼の蛇」が「ザナドゥ」に旅立った後も、
シュドナイは坂井悠二と行動を共にします。

シュドナイはどうやら意固地で頑固者の坂井悠二が嫌いでは無いようなのです。
皮肉屋のシュドナイは、巫女であるヘカテイを一途に想うなど意外に純真です。
ですから、シャナを想う悠二に最後まで付き合う覚悟を決めているのです。

■ 悪役にまで愛を注ぐ作品こそが名作 ■

悪役が人気を得る作品に駄作はありません。

シャナでは、シュドナイをはじめ、
巫女のヘカテイもアニメ版では人気がありますし、
何と言っても、バルマスケのマッドサイエンティスト「探耽求究ダンタリオン」は
いつもイカレテいて素晴らしい。



このあまりにもクセの強いキャラクターは、
監督の渡部高志ならではのキャラクターなのでしょうが、
とにかく狂っていて面白い。



そして最後まで喰えないキャラと想われていたベルペオールまでもが、
街を守る「自在式」を準備しておくなど、もおツンデレの極みです。

■ 「道理」を粉砕する「感情」 ■

魅力的な悪役という時点で、シャナは既に名作の風格を持っているのですが、
やはり、アニメ三期目は、ひたすら集団戦を描く事で話が拡大し過ぎました。

坂井悠二の理屈と、シャナの思いがすれ違い続けるので、
視聴者は悶々とした気分を味わいます。

しかし、最後の最後で、このダラダラとした戦闘の意味が明かされます。

坂井悠二は、この戦いで多くの犠牲を出します。
フレイムヘイズのみならず徒達も沢山死んでいます。

彼は人とフレイムヘイズと徒が共に生きる新世界を創造しながらも、
「多くの人を死なせた」自分はシャナと共に在れないと語ります。
新世界が本当に、共存の世界になる事を見定めなければ、
自分に幸せになる資格は無いと言うのです。

それに対するシャナの返答は、「頭突き一発!!」
「私は悠二の採点係りじゃ無い!!」

さらにそれに続いて、
「悠二、私の想い、受け止めて!!」

・・・・オイオイ。
何だよ、この脚本は・・・・と普段なら突っ込みます。
でも、シャナシリーズ全編を見てきて(ツマラナイ回も我慢して)
そして、最後がこのセリフだと、これが最高のセリフに思えるから不思議。

フレイムヘイズとして人の感情を捨てたシャナが、
人間としての、純朴な感情に回帰する一瞬です。

この純真さ、一種の幼さの間に、坂井悠二の理念や道理などは一瞬で粉砕されます。
シャナの全く飾らない想いが、
頭デッカチ人間の坂井悠二が自己を肯定せざるを得ない所に追い詰めます。

様は「私をどうしてくれるのよ」攻撃です!!

真面目な坂井悠二はこれを断る事が出来ない。
そしてシャナの想いを受け入れる事で、悠二の人間性が回帰します。

そんな結末を見越していたかの如く、
「螺旋の風琴、ラミー」の自在式が発動します。
存在の燃えカスであった悠二は、人としての存在を回復するのです。


■ 見事に大風呂敷を畳んで見せた脚本の手腕 ■

結果はある程度視聴者にも分かっていたとは言え、
「灼眼のシャナ」はあまりにも大風呂敷を広げ過ぎていまいた。
登場人物も三期目で格段に増えてしまいました。

それをどう畳むのか、興味深々でしたが、
脚本の小林靖子は、物語は逆回しする事で見事に収束させます。
(原作もそうなのでしょうが)

シャナと悠二の周りには、
マージョリーとシュドナイだけが残ります。

この二人の激突が最終輪の真骨頂です。



既に二人に戦う理由など存在しないのですが、
それでも二人は互いの意地で戦いしか選択の余地がありません。

この強大な力を持つ二人のバトルは、
ともすると「痴話喧嘩」にしか見えないシャナと悠二の戦いに
スペクタクルの華を添えます。

マージョリー・ドゥとその紅世の王たるマルコシアスのコンビは、
最高の掛け合いを見せてくれますが、
その最後の一世一代の自在式の「即興詩」がコレ・・・

「誰がコマ鳥を殺したか?」
「誰が処置を受けたのか?」
「誰が墓穴を掘るのかねえ?」
「誰がお悔やみ受けるのか?」
「誰が調子を吹くのかね?」
「かわいそうだねコマドリさん!!」

いつもながら訳が分かりませんが、
これってマザーグースですね。

マジョリー・ドゥとい名からして
マザーグースの一節です。

「シーソー・マージョリードー
 ジャッキーはおやかた帰るってさ
 かせぎは一日 一ペニー
 なぜってやつは、とってものろま」

本家本元のマザーグースもやはり意味不明です。

■ 最後にこの絵は泣けます ■



さて、物語は「螺旋の風琴ラミー」の自在式で、
存在の力を喰われ過ぎて安定を失った町を元の姿に返す事で結末を見ます。

壮大なストーリーのきっかけとなった、
クラスメイトの平井さんの存在も回復されます。

しかし、平井さんの存在に割り込んでいたシャナの記憶は
クラスメイの記憶から消え去ります。

そして、エンディングタイトルでちらっと写る絵は、
存在が消えかけた平井さんの想いを遂げさせるため、
坂井悠二が親友の池と3人で取ったプリクラ・・・。

そこからは坂井悠二の姿は消えています。

・・・こういう脚本と演出にはシビレます。

「杓眼のシャナ」のアニメシリーズは、
第2期、第3期と随分とダメダメでしたが、
最終回のたった一本によって、そのダメダメ振りも、
この一話だけの為にあったのだと思えてしまいます。


脚本と演出がいかにアニメにとって大事かを
痛感させる作品として、「灼眼のシャナ」は語り継がれるでしょう。



PS

シャナの対局にあるのが「ギルティークラウン」でした。
最終回での大逆転どころか、ダメ押しの満塁ホームランを打たれた感じ・・。
作画と、音楽、そして物語のネタは素晴らしいのに、
なぜあんなにも不快な作品が出来上がるのか不思議です。

きっと、プロダクションIGの若者は、
キャラクターは道具だと想っているのでしょう。

シャナの様に、名前が存在するキャラクターは一人として粗末に扱わないという
「キャラクター愛」に貫かれていなければ、名作は生まれません。





今、何故「野村證券」の問題ばかり出てくるのか?・・・「野村潰し」で得をするのは誰?

2012-03-24 08:51:00 | 時事/金融危機
 

■ 「野村OB]がキーワード ■

昨年クリスマスの「野村證券破綻」の噂は空振りに終わりました。

しかし、「野村證券」は最近のキーワードになっています。

1) オリンパス事件
2) AIJ事件
3) 三井住友トラスト・インサイダー疑惑

■ 野村證券潰し? ■

「野村證券は顧客を食い物にしていたのだから叩かれるのは当然」
という風潮が広がっています。

しかし、こう立て続けに野村證券やそのOBの疑惑が表ざたにされると、
「野村を潰す陰謀」を疑いたくなるのが人力流。

日本最大の証券会社、「野村證券」が危機に陥って得をするのは誰なのか?

1) 日本の個人投資家の資金を狙うアメリカの陰謀

2) 大量の株を保有する野村證券を揺さぶって、
   「日本株クラッシュ」を企むアメリカの陰謀

3) 野村を三菱UFJ傘下に入れ、来るべき金融危機に備える金融庁の陰謀

真相は明らかではありませんが、結果的には野村証券は三菱UFJ傘下に収まるでしょう。
それが、何を意味するのか?

野村證券の動向は、日本の将来を占う上で注目の値するのではないでしょうか?






タマゴからいきなりニワトリが!!・・・暖め過ぎにご注意を!!

2012-03-22 09:22:00 | 時事/金融危機
 




■ 金融の回復は実体経済を回復させるか? ■

アメリカの景気が回復したと主張する人達はこう語ります

1) 不良債権はとりあえず時価会計せずに「塩漬け」にする

2) 中央銀行が通貨を増刷して、流動性を供給する

3) 実体経済は回復していないので、供給された資金は金融市場を潤す

4) アメリカ人の資産運用は金融市場で行われているので
   金融市場の回復は、個人資産の回復と同義である

5) 個人資産が回復すれば、消費が回復する

6) 消費が回復すれば、企業の投資意欲も向上し、雇用が回復する

7) 雇用が回復すれば、破産も減り、住宅市場が回復する

8) 住宅市場の信用が回復すれば債権の価格が回復する

9) 「塩漬け」にしていた不良債権の価格が持ち直す

10)アメリカの景気は見事に復活する


■ 損失は回復するのか? ■

一見、正しい意見の様に思えます。
しかし、このシナリオには重大な見落としがある様に思えます。

先ず、「損失は何処に行ったのか?」という点です。
AIJ問題を例にとるまでも無く、金融の世界は「オール or ナッシング」です。
個人が被った損失が、はたして回復するのかどうか疑問があります。

例えば住宅債権は、個人が破産した分は確実に損失が確定しています。
これは小さな損失です。

この他の「大きな損失」の考え方が楽天派と悲観はの分岐点です。

1) 債権金融は住宅ローンなどの実際の債権を商品化している

2) 組成された商品は、さらに新たな商品に組み込まれている

3) この様に本来1であった債権が何倍かの商品として取引されている

4) 本来返済は元の債権からしか生まれないので、利息は元の債務者しか払い手が居ない

5) これらの金融商品は、元の債務者が払う何倍かの利息が全体で支払われている

6) この過剰に支払われる利息は、金融商品購入者に支払いに支えられていた

7) 新たな金融商品購入者が現れなければ、金利の出所が無くなる

8) 当座不足する金利分を、中央銀行が貸してとなって経済を支えている

9) 中央銀行の資金供給が途絶えると金利の出所が無くない、このシステムは崩壊する


楽観派の人達は、やがて景気が回復すれば人々が再び金融商品に投資して
利息負担の連鎖が回復するので、
「塩漬け」になっていた債権の価値も回復すると考えます。

悲観派の人達は、「ネズミ講」と同様のシステムの破綻は当然であって、
その額の大きさからも、多少の回復ではその支払いを保証出来ない事を知っています。
もし、解約や満期によって元本の大量償還が始まれば、
現在の中央銀行の資金提供の規模では、市場が支え切れないと考えています。


■ タマゴから突然ニワトリが飛び出す「楽観論」 ■

楽観論者の意見には「スケール」が欠如している様に思えます。

損失が発生するにしても、その額が小額であればシステムは破壊されません。
しかし、その額があまりに大きくなれば、システムは破壊されます。

ギリシャ危機が便利なのは規模が小さいからであって、
ダラダラと時間を掛ける事で、債権者は損失を徐々に確定しています。
ところが全体の規模が小さいので、
ギリシャ危機による損失は、世界経済を破壊する程の力を持たないのです。

ところが、これがイタリア規模で発生すれば影響は絶大です。
ユーロは確実に崩壊し、世界は金融恐慌に転げ落ちます。

同様に世界が溜め込んだデリバティブの損失は、
例え「解け合い」などで圧縮されたとしても世界経済に大打撃を与える金額です。

「金融市場に中央銀行が潤沢な資金を供給すれば、景気が回復する」という説は
「タマゴを充分に温まれば、タマゴから直接ニワトリが生まれる」と言っているに等しい。


■ 暖め過ぎるとタマゴは腐る ■

しかし、暖め過ぎたタマゴは腐ります。
インフレがそれに相当するのでしょう。

Wallstreet Jounalの記事は冷静に現状を分析しています。
タマゴの腐敗の兆しが見えているのかも知れません。

「物価高が引き起こす錯覚に惑わされるな」(2012.03.22 Wallstreet Jounal)
http://jp.wsj.com/Finance-Markets/node_411950?mod=WSJ3items

<引用開始>

インフレが加速し始めた今、現実とインフレが引き起こしている錯覚を見分けることがきわめて重要だ。そうしないと、実際は違うのに、景気回復が本格化しているという印象を持ってしまうかもしれない。

 たとえば小売売上高である。2月の売上高はこの5カ月間で最高の伸び率を示したので、表面的には朗報に見える。小売売上高は個人消費支出の半分を占め、その個人消費支出は米国の国内総生産(GDP)の3分の2を占めるので、最悪期は過ぎ去ったと結論づけたくなる人もいるだろう。

 しかし、それは間違いである。第1に、こうした数字は金額であり、季節調整済みだが、インフレ調整済みではない。第2に、伸び率のほとんどは、ガソリン価格の6%上昇を反映したものである。

 ガソリンを除くと、小売売上高の伸び率はずっと控えめなものになる。さらに灯油、食糧、ヘルスケアなどの価格上昇分を考慮すると、小売売上高の前月からの伸び率は実質ゼロということになる。

 価格上昇の効果を除外し、実販売数に注目することが大切だ。というのも、実質消費が実質生産高を決定し、その実質生産高が実際に雇用を創出しているからだ。最終的に、米国経済にとって最も重要なのは雇用である。

 もちろん、中には信頼できる統計もある――数量(戸数、人数)表記で価格上昇の影響を受けないもの、たとえば雇用者数、失業者数、失業率などである。

 さらに工業生産高、設備稼働、住宅着工件数、住宅販売戸数、住宅在庫数もこのグループに入る。消費者心理、消費者信頼感といった指標についても問題はない。

 ところが、他の重要な統計は、価格上昇と数量をはっきりと区別していない。たとえば企業収益(と米企業のほぼすべての財務諸表)、在庫高、先行指標などである。

 小売売上高に話を戻すと、ガソリン価格上昇の影響はこのカテゴリーだけにとどまらないということを肝に銘じるべきだろう。ガソリンは物資の輸送、機械の稼働、ブラスチック、衣類、その他の製品の原料油としても使われるので、その価格上昇の影響は経済全般に波及する――米連邦準備理事会(FRB)が進めた金融緩和政策によって市場に安いドルがあふれている状態ではなおさらである。

 ガソリンの高騰はすでに人々の消費余力に悪影響を及ぼしている。2月のインフレ調整済みの平均週間収入は、1月の0.1%に続いてさらに0.3%減少した。消費者の購買力を測るものさしとして重要な平均週間収入は、この1年間で0.4%減少している。

 購買力が伸びていないということは経済にとって良くない兆候である。つまり人々には、今日の上昇した価格はもとより、昨年の価格で商品を買うためのキャッシュや借入能力がないのである。

 こうしたことから、ほとんどのエコノミストは第1四半期の経済成長率が1.7%に減速すると予想した。これは昨年の第4四半期の半分強の伸び率でしかなく、第2四半期についても急成長は望めないというのがエコノミストの見方である。

 あいにくだが、これは錯覚ではない。

<引用終わり>


最近のWallstreet Jounalの記事は、ほとんど有料記事になっていますが、
これは無料の記事です。

私はどうもWallstreet Jounalの無料記事はプロパガンダの様な気がします。
書かれている事は正しいのですが、ガイトナーの発言を裏打ちする様で、
米景気の過熱感を抑えたいという思惑が透けて見えます。

・・・という事は、このまま米景気が拡大し始めると何かヤバイ事が起こる。
景気の好転で上がるのは株価です。
その反動で下がるのは債権価格です。

米国の長期債はFRBが買い支えていますが、
短期債は市場の影響を受け安い状況です。

FRBは19.7億ドルの国債買い入れを実行しました。

ガイトナーが好景気の火消しに必死な理由はこれでは無いでしょうか?

インフレと債権安は二重の金利上昇圧力になります。
未だ出口すら見えない状況下で、金利が上昇すれば、
債権金融システムで強大な巻き戻しが発生し、世界は恐慌に突入します。






何だか似てきた北朝鮮とギリシャ・・・危機の演出

2012-03-21 09:46:00 | 時事/金融危機
 

■ 何だか似てきた北朝鮮とギリシャ ■

洋の東西で何だか似た国があります。

共に半島国家です。

一方の国は、破綻しそうで、
なかなか破綻しません。

もう一方の国は、破綻しているのに、
破綻しません。

両方の国とも、時々騒いで世界から支援をもらいます。

支援をもらうと、すぐに騒ぎを起します。

どちらの国も、可愛そうなのは国民です。

破綻してやり直す事が許されないのですから・・・。

■ ギリシャ国債、50%の損失ならば悪くない ■

3月20日危機説はどうやらガセだった様です。

危機説の原因の一つともなっていたギリシャ国債のCDSの入札も順調だった様です。

「ギリシャCDS清算入札、市場の不安根強く」(2012.03.20 ロイター)
http://jp.reuters.com/article/jp_eurocrisis/idJPTJE82I01620120319

1) ギリシャのCDSの支払い総額はは25億ドル
2) 1ユーロ当たり、21.5セントの支払い

ギリシャ救済に当たっては民間銀行も実質75%の債権を放棄しています。
25%程度をCDSでカバー出来れば、満足の行く結果となるのでしょう。
「損はしたけれども半分は取り戻した」といった所でしょう。

先進国における国債で損失が発生したので大きく取り上げられていますが、
金融の世界で50%の損失で済んだのだから、上出来という見方も出来ます。
AIJなんて、根こそぎ持って行かれましたから・・・。

■ ギリシャ危機は縮小している? ■

最新のギリシャ国債の利回りは17%を越えています。
結局、3月20日の償還はどうにか乗り切りましたが、
5月の償還に向けて、危機は依然として継続中です。

ギリシャは財政に余裕がありませんから(当然です、大赤字なのですから)
償還資金は新規国債の発行に頼るか、
ECBやIMFなどの支援に頼るしかありません。

今更ギリシャの国債を買う民間金融機関は余程のギャンブラーか、
「ギリシャは破綻しない」という確実な裏情報を持った勢力しか居ないので、
ギリシャは5月の償還時に、3月と同様に又、世界中を冷や冷やさせます。

但し、今回の3月危機でCDSを無効化した様に、
時間が経つにつれて、危機の規模を縮小している様にも見えます。

■ ギリシャは金を返せない ■

ギリシャは自力で財政を均衡させる事は出来ません。
緊縮財政が経済を後退させる事は明らかであり、
給与を減らされた国民が、消費に走るとは到底思えません。


ギリシャのGDPの推移(世界経済のネタ帳より)


ギリシャの経済予測(ロイター参照)

上のグラフは2011年までのギリシャのGDP推移です。
リーマンショック以降、低下傾向にあります。

下の表はロイターが入手したギリシャの経済予測です。
2013年にはGDPの縮小に歯止めが掛かり、
2014年にはGDP成長率はプラスに転じています。

・・・・予測ですから・・・
こうならなければギリシャは破綻するのです。


こんな夢の様な未来は、当のギリシャ人だった信じていません。
こんな数字を見せられて、ギリシャは破綻しないと言われても
誰も信用する訳がありません。

ですからギリシャのデフォルトは確定的ですが、
ECBやIMFやその他の機関が、
ギリシャの国債償還分を貸し続ける限りデフォルトは先延ばしされるのです。


その間、ギリシャ国民はハゲタカに内臓を喰われながらも生き続けるプロメテウス宜しく、
永遠の苦しみを味わい続けるのです。

プロメテウスの罪は人間に「火」を与えた事。
ギリシャの罪は、ユーロ危機に「火」を着けた事。


アニメのキャラクターの人格と暴力・・・ホラーの映像化「Another」

2012-03-20 14:07:00 | アニメ
 




■ ホラー好きの女子など理解不能 ■

私は「血」を見ると気持ち悪くなるのでホラーは嫌いです。
実写のホラー映画を映画館で見る人達をある意味尊敬してしまいます。
なんという勇気なのだろう・・・と。

又一方で、ホラー好きの女子などという存在は、
BL好きの女子の、遙か一万光年超えて理解不能です。

何故、人が血まみれで死んで行く姿に喜びを覚えるのか、
ホラー好きが嗜虐趣味なのか、それとも諧謔趣味のなのか?
分からない・・・私には皆目分からない。

そんな訳で普段ホラー映画などは決して見ないのですが、
アニメだと血の生々しさが少ないので、
作品によっては、ついつい見てしまいます。

今期放送の「綾辻行人」原作によるアニメ「Another」を、
見たくないと思いながらも、ついつい見てしまっています。

■ とにかく演出は一品 ■

アニメ版「Another」の演出は素晴らしい。
・・人が死んで血さえ流れなければ・・。

下手な実写映画の監督のまぶたにセロハンテープを貼って、
24時間見せ続けたいと思える程に素晴らしい。
・・人が死んで、血さえ流れなければ・・。

という事で監督は誰かと思いきや、
なんと「イカ娘」の「水島勉」でした。
さすが、「クレヨンしんちゃん」で「原恵一」の下で学んだだけあって、
「水島勉」の日常描写は、最近のアニメ監督の中では群を抜いています。

それが「明るく」発揮された好例が「イカ娘」ならば、
その暗黒面が怒涛の様に噴出すのが「Another」です。

同じ監督でこうまで違う表現を見せられると驚きを通り越して、戸惑いすら覚えます。

■ 空気感を描くという事 ■

それぞれのシーンでの「空気感」が素晴らしい。
これは「背景」の完成度の高さに負う所が大きいのですが、
週一のアニメでここまで背景を描きこめるのかと関心しきりです。

ホラーはまさに「雰囲気」に支配されるジャンルですから、
図書室の本の間から、学校の廊下の壁から、病院の暗い廊下の先から
不穏な空気が、にじにじと湧き上がって来たら、怖さ100倍です。
「Another」はこの点において、水準を遙かに超えています。

■ 萌えの対象が殺される・・・ ■

一方、「ハルヒ」の「いとうのいじ」が担当したキャラクターは、
いかにもアニメ的で、殺伐とした物語からは少し浮いています。
とにかくキャラクターが男子も女子も可愛らしい。

世に言うオタク達が、
「俺はメガネ委員長が好みだ」とか、
「いや、気の強そうなツインテールが好い」とか
「やはり綾波レイゆずりの眼帯美少女萌えだ!」とか言い出した頃、
子供達も、その周辺の大人達も、次々に無残な死を遂げて行きます。

何故なのか・・・・ホラーだからだ・・・。

「金髪巨乳美女は一番最初の餌食」という約束事に違わず、
その死は、メガネっ娘で性格の良い学級委員長から訪れます・・・。

■ 萌えの対象の死を望む不思議 ■

ホラー映画を一般人の視点で見るならば、
主人公カップルが数々の危機を切り抜けて
逃げ延びた時の「安堵感」を求めるのでしょう。

ところが、「Another」の感想サイトなどを覗いてみると
お集まりの皆さんの様子は少し違う様です。

「あの死に方は完璧」とか、
「あれはちょってお中途半端」なんて書き込みで埋まっています。

当然と言えば当然なのかも知れません。
ホラーなのだから・・・。

一応、「俺のお気に入りは生き延びた」なんて感想もあるので、
一概に「萌え」の対象の惨殺を、楽しんでばかりいる訳では無いのでしょうが・・。
それでも、ストレス発散にはなっている様です。

■ キャラクターの人権? ■

ホラーなど登場人物が次々に死んでゆく作品を見る度に思う事があります。
「キャラクターには人権は無いにか」という疑問です。

キャラクターは作者の作り上げた架空の存在ですから、
そもそも人権など無くて当然なのかも知れません。
煮るなり焼くなり、ある程度は作者の自由なのでしょう。

一方で、受け手側にはしっかりと規制が掛かっています。
ちょっとショッキングなシーンはR15などと
精神が未熟な子供を、暴力的なシーンから遠避ける努力がなされています。

それでは、精神的に成長したとされる15歳以上や、18歳以上なら
暴力的なシーンを楽しむ権利があるのでしょうか?

多分、法律的には何ら制約は受けないのでしょう。

むしろ昨今は、キャラクターの人権の方が尊重されている様で、
石原都知事は、幼いキャラクターを条例で悪魔の手から守っています。
色々と賛否両論あるでしょうが、良く考えると面白い現象です。

もともとは幼児性愛などの性犯罪防止の目的で作られた条例だと思います。
精神的に成熟していない大人=オタクが、子供に対する暴力シーンに影響を受けて、
現実社会で同じような行動を起こす事を防止するという目的があるのでしょう。

ところが、視聴者の年齢制限で無く、キャラクターに年齢制限を掛けたので
結果的に「キャラクタの人権」を守る様な条例になっています。

■ 子供を悪影響から遠ざけるアメリカ ■

子供を暴力描写から遠ざける試みは。アメリカなどでは顕著です。

子供向けアニメで「血」の出るシーンはNG。
お酒やタバコを嗜むシーンもNG。
ポロリどころか、大きく胸元の空いたコスチュームもNG。
銃を構える絵もNG。

ワンピースのアメリカ版アニメは、これらのシーンが結構修正されています。
そういう涙ぐましい努力にも関わらず、
アメリカ社会には暴力が溢れているのも不思議です。

腕は飛ぶは、首も飛ぶは、タバコは吸うわ、酒は飲むはという
日本アニメを子供のころから見慣れている日本人が
これ程までに平和的なのも海外から見れば不思議なのかも知れません。

■ 残酷の文化 ■

人間が普通に人を殺さなくなってからどのくらいが経つでしょうか?

60年前は、「外国人」と殺し合っていました。
500年前は、戦国大名同士が、その家来達とガチバトルを繰り広げていました。
10000年前は、隣の村とガチバトルが絶えなかったでしょう。

そう言われてみれば、人類が普通に人を殺さなくなってから、
まだ、たかだか100年くらいの歴史しかありません。

だから、動物としての人間の本能に中には、
どこかに、「殺したい」とか「血を見ると興奮する」という回路が残っているのでしょう。

そして、それを安直に従属させる方法が
「ホラーを見る、読む」という行為なかもしれません。

これはスポーツを観戦して熱狂するのと同じ行動原理かも知れません。

■ 暴力から隔離された人はどうなるのか? ■

「子供は天使」という戦後擦り込まれた概念を無視すれば、
「子供は残酷」ない生き物です。

カエルの足うひん剥いて、それを糸の先に縛ってザリガニ釣りをするのも平気ならば、
アリの行列を踏みつぶすのも大好きです。

「アリさんにも命があるのよ。」
「アリさんの命も、人の命も同じ命よ」と教えなければ、
子供はアリに対して大量殺戮を敢行する様にプログラムされているとも言えます。

そのプログラムを無視して、子供を暴力から遠ざけるとどうなるでしょう?
 
「暴力衝動」は存在するが、それが何であるか理解出来ない子供が育った場合、
成長した後に、暴力衝動が理解出来ないが故に
暴力衝動が抑制出来ない大人になったりしないのでしょうか?

世間では逆に、「暴力的環境で育つと、暴力的大人になる」というのが
主流を占める意見でしょう。

■ ホラーを見る方が、人として正しいのか? ■

私自身は「ホラー」は嫌いですが、
人が「暴力」や「破壊衝動」を内包する存在ならば、
それを安易に隠すのではなく、折り合いを付けた方が健全とも考えられます。

「血飛沫飛び散るホラー」を見る事も、悪い事では無いように思えて来ました・・・。


・・・ンンン、何だかそれは違うような・・・。


■ 「屍鬼」に見る、善悪の逆転 ■

最近のホラーアニメで印象に残るのは「屍鬼」です。
日本版吸血鬼としては、とても良く出来た作品です。

日本のとある田舎町で奇妙な死亡事例が続出します。
そして使者たちは「屍鬼」として蘇り、
かつての友人や親兄弟を「屍鬼」の仲間にしてゆきます。

いつしか村は「屍鬼」に支配され、
残された住民達は、「屍鬼」を狩るという暴力を行使します。
昼間は日光を避けて暗がりで仮死状態になっている「屍鬼」達は、
一転して不利な立場に追い込まれます。

「狩る者」と「狩られる者」が逆転するのです。
すると善悪の境界も同時に薄らいで来ます。

「生きるが故に醜い人間」と「死んでいるが故に美しい屍鬼」

これはデビルマンにも似た構造を持つ物語ですが、
アニメを見終わると、是非原作を読みたくなります。
何度も本屋で手に取るのですが、未だに買う機会を逸しています。


ところが、「Another」の原作のハードカバーは
何故か私の書棚に収まっていました・・・。(ゾーーー)
酔っぱらった時に、表紙買いして、忘れていたのです。

娘が先に読んで、「死者の正体」を明かしてしまったので、
一気に拍子抜けしてしまいましたが、
アニメは、「やり過ぎ」という言葉がぴったりの
惨殺劇が繰り広げられています。


ところで、「屍鬼」の原作者「小野不由美」は、
今回紹介した「Another」の原作者「綾辻行人」の奥さんです。

京都大学推理小説研究会で知り合った様ですね。
同時期の部員には、二人の他に法月綸太郎・我孫子武丸が居るようです。
恐るべし、京都大学推理小説研究会。