昨日の講演は白熱教室だったけれど、先生は常にそうした姿勢で臨まれていると思われる。
通常と同じ・・・変わらない情熱。
拝聴していると、先生の原点が見えてくる。つまり一点を置くその位置である。与えられた空間(二次元・三次元の場合に限らず)に、異物を関与させることから始まる作家としての視点。
心象世界、絵に描いた餅ではない。必然的にプランはご破算になることも多いかもしれない。
(宮本武蔵のようだ)という感想を抱いてしまう。空間・立地を身体で把握し、切り込み方を想像する。待つことと去る方向を時空に位置付け、相手に挑む姿勢である。もちろん風向きや太陽の昇降をも計算する。
李先生は「作品は息を吸い息を止めるときにできますから、息を吐くときは休息です」という。
「石が石を越える、その現象を思考錯誤しながら究めていくのです」と言う。それは、白紙に一筆入れる呼吸に相通じるものがある。いわば、《余白との対話》である。
つねに『存在と非存在の関係性』を念頭に入れ、一つ置けば一つ空間(無に見えるもの)が消えることをその身体性で図っている。
これは頭で考えてもダメだし、単に素材をそれらしく並べても作品とは成りえない。複合的な要素が一つに合致し主張を持ち始めるタイミングを抑えることである。そして(古来からの手法にあるように)完成から一手差し引くことにより、総体的な含みを持たせることが出来るという。
李先生は教育者でもある。質問者に並べて「それは良い質問です」と大いなる肯定を示す。そして、その後の発言によって微妙な差異、主張を調整するという具合の答を返している。
肯定・否定・大いなる肯定は思考の王道かもしれない。
点から線、そして世界を鮮やかに垣間見せ、太古の眠りである石や鉄から未知との遭遇を提示する。
井の中の蛙のわたし、大いに感銘を受けた昨日の講演会でした。