『地下のデイジー』というタイトルであれば、地下に主眼があるということである。
当然、地下は見えない。
見えないエリアを対象(モチーフ)にすることなど、有り得ない。鑑賞者の疑惑を生み、ため息と共にその場を離れざるを得ない状況を作ってしまう。
『ぶらぶら美術館』で山田五郎が説明していたけれど、(ふん、そうなんだ)という感想しか抱けなかった。説明されても軽く通り過ぎざるを得ない作品提示である。なぜなら掘り返して確認するというわけにはいかないからで、博物館の地層展示のような具体性は見えない。
しかし、現実に地下には123枚の鉄板が重なり合って3メートルに及ぶ長さで埋められているという。
驚異・驚嘆である。《なぜ、なんで?》見えないのに、分からないのに・・・。
この点に若林奮固有の強いこだわりがある、その信念が作品の支柱をなしていると言ってもいいかもしれない。
《見えないが、在るもの》への凝視の眼。『日の出、日没』の時空、地表面・天空・地下への垂直な空間への透視とも思える凝視。
《存在は存在を遮るものである》そして《時間とともに変移していくものである》という理念。対象物は決して固定されず、時間の経由と共に自然の中で自然と共に変容していくという不変の真理に基ずく提示である。
わたし達が見る景色は刹那であり、即物的である。それが自然であるけれども、その刹那を幾度も幾憶回をも重ねた時間を空間領域の中に設定・提示したいという挑戦が作家の意図である。
『地下のデイジー』は、その意味で極めて象徴的な作品であり、彼の作品の《門》であると理解している。
(写真は神奈川県立近代美術館『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)