頭部というより(顔)である。白い石膏像、切り取られた目と頬の部分…透けて見える背後、空洞は何を意味しているのだろう。
もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身を地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である(『マタイによる福音書』より)
黒々とした木々、しかし木の幹はポール(死後)であり、繁る枝葉(生)との合体・共存はあり得ない景である。
それらが暗澹たる漂流を暗示する波動の上にかけられた橋(細長い板)に乗っており、橋に見える板状のものには、凹みが任意に刻まれている。
この橋に見えるものは空中に浮遊しているのでないとすれば、どこでどのように支えられているのだろう。この光景を成すすべての物は自然ではなく、人工的に造ったものの世界である。
要するに疑似ワールドであり、それを『天才の顔』と称する世界観だとすれば、『天才の顔』とは《虚偽》であるという静かなる観察ではないか。
敬意・信奉というより、皮肉を込めた感想という気がする。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
あらゆる変幻の色彩を示し
……もうおそい ほめるひまなどない
虹彩はあはく変化はゆるやか
いまは一むらの軽い湯気になり
零下二千度の真空溶媒のなかに
すつととられて消えてしまふ
☆片(二つに分けたものの一方が現れる私記である。
済(救い)は遍(もれなく)化(教え導くこと)に逸(隠れている)。
経(常)に等(平等)の記である。
霊(死者の魂)の科(とが)は辞(言葉)で詮(明らかにし)、託す。
要(かなめ)の媒(なかだち)は、照(あまねく光が当たる=平等)にある。
従僕は、手にさげていたカンテラを消した。ここには明るい電燈がともっていたからである。ここは、すべてが小造りだが、しゃれていた、場所は、利用できるかぎり利用してあった。
☆従僕(死人)は灯りを消した。ここは電気の照明で明るかった。
すべてここでの氏族は厳かだった。