擬人化の紙片に空けられた穴(模様)は、人生における経験の情報すなわち記憶である。
二つに折り畳まれて刻まれているのは何故だろう。
是非ではない、人としての核(中心)があるということかも知れない。
刻まれた穴は、偶然ではなく必然的なものであり、均衡がとれている。平凡と換言してもいいかもしれない。
これらの穴は背後の空間に透けている、自然との一体化の進行…無に帰していくためのものだろうか。
足は下方へ、上半身は正面を、そして顔(頭部)は上方を。つまり葛藤・反逆の精神である。
この人生(重力圏)において、下降は必然であるが、精神はあくまで真理を目指している。この徒労この虚しさを、吹けば飛ぶ紙のような質で、しかも経験値の穴を刻みながらも、《抵抗》をもって生きている。これを喜劇と呼ばずしてなんとしよう。正しく『喜劇の精神』である。
その陽のあたつたせなかが
すこし屈んでしんとしてゐる
わたくしはあるいて馬と並ぶ
これはあるいは客馬車だ
どうも農場のらしくない
わたくしにも乗れといへばいい
馭者がよこから呼べばいい
☆拗(ねじれる)苦痛、魔(人を惑わし害を与えること)を蔽(見えないようにしている)。
各(それぞれ)の魔(人を惑わし、害を与える)の赦(罪や過ちを許す)。
悩む状(ありさま)を浄(きれいにする)語(言葉)は赦(罪や過ちを許す)拠(より所)である。
片手にからの食器をのせた盆をもっていた。Kは、すぐもどってくるからと従僕に言って、フリーダのほうへ走っていった。従僕は、そしらぬ顔をしていた。
☆フリーダは気づかず、ただじっと見ており、一生懸命働く人たちを無に帰していくことを無雑作に担っているだけだった。