子供頃夏休みほど嬉しいものはなく、夏休みのために我慢して通学するという風だった。今は365日平坦な日常を過ごしているけれど、それでも夏の暑さに向かっては覚悟を迫られる。
梅雨明け宣言が出てからというもの、寝具のカバー類の選択、カーテン・網戸洗い、食器棚・冷蔵庫の中の清掃・・・など大汗を流して奮闘している。
大雑把な正確だから、《やった》というに過ぎないかもしれない。
それらの行為は今夏の暑さで《もしも》のことがあって期せずしてあの世に逝った後に物笑いにならないための作業とも思える。
この夏を乗り切るために、この夏に何かを為すために・・・井の中の蛙はバタバタと一人芝居に興じている。
芝生
風とひのきのひるすぎに
小田中はのびあがり
あらんかぎろ手をのばし
灰いろのゴムのまり 光の標本を
受けかねてぽろつとおとす
☆ 死の照(あまねく光が当たる=平等)
普く章(文章)で伝えている。
衷(心の中)の趣(考え)の皆(すべて)の講(話)は、平(平等)を本(根源)とし、需(必要)としている。
四分割、しかもほぼ等しい景であれば、どこに違いがあるのかを探さざるを得ない。鑑賞者にそう迫ってくるような作品である。
第一に浮上するのは《男の存在と男の不在》である。
そしてその脇に設置された黒い筒状のものは不明(暖房機?)であるが、その無機的な存在が男に等しい存在感を放っている。重厚で不動な設置、男の存在がより軽くなる所以である。奇妙に漂う男の不在の重さ・・・。
男は新聞を読んでいる、即ち誰かと話し、つながりを持とうとする状態ではない。
物言わぬ調度はそのままのたたずまいで繰り返される日常に鎮座しているが、男は不在がちであるのかもしれない。
晴れ渡った外気、室内に乱れはなく平和である。あるべきものは揃っている。
しかし、男の不在がちは明らかであるが、手前に置かれた椅子には更なる不在がある。もしかしたら永遠の不在であるかもしれない不在・・・。男の妻、マグリットの母の不在である。
作品の中から漏れる忍び泣き・・・慟哭が隠れている、そんな気がする作品である。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
耕耘部へはここから行くのがちかい
ふゆのあひだだつて雪がかたまり
馬橇も通つていつたほどだ
(ゆきがかたくはなかつたやうだ
なぜならそりはゆきをあげた
たしかに酵母のちんでんを
冴えた気流に吹きあげた)
☆講(話)を展げ、部(区分けする)考えである。
説(話)は魔(人を惑わし害を与える)凶(悪人)の痛みの講(話)である。
簿(ノート)の語(言葉)の記を留めて推しはかる。
ぼくは、そのためにきみに腹をたてはしなかっつぃ、ここにはどうにもきみの手にあまるようないろんな力がはたらいているという事実がわかった。ぼくは、きみがすくなくとも身をまもろうとしていることだけでもうれしくて、なんとか助け舟を出してきみを守ってやろうとした。
☆わたしはそれゆえ有害ではなく演じる勢力だと理解していた。わたしは少なくともきみが抵抗しているだけでも幸いだと思って、きみを弁護し助けてやろうとした。