『風景観察官』
あの林は
あんまり緑青を盛り過ぎたのだ
それでも自然ならしかたないが
また多少プウルキインの現象にもよるやうだが
も少しそらから橙黄線を送つてもらふやうにしたら
どうだらう
☆普く継(つなぎ)換(入れ替える)
察(詳しく見て)換(入れ替える)
輪(順番に回る)に録(文字を書き記している)
章(文章)は常に化(形、性質を変えて別のものになる)により字を繕(直して)他の章(文章)にする。
現れる衝(重要なところ)の照(あまねく光が当たる=平等)を套(隠した)講(話)を宣べていることが総てである。
道は前方の空間であるが、前方はまるで防御壁のようで、道は認められない。しかも地上を写しておらず、立脚点が不明である。
道を歩くという確証に欠けているのに、散歩道と名付けている。遊歩道という気楽さ/自由がないのである。
家々の窓からは活気という生命の燃えたちが感じられない。閉鎖的であり、画一化されたような強制が潜んでいる。
空は漆黒の闇、向こう(未来)が見えない、前進する術がない。家々の後方には林があるがその向こうとなると近距離であるにもかかわらず、すでに漆黒の闇である。
不安・恐怖・拘束・不自由…恋人たち(次世代を担う若者)の道は閉ざされている。
1930年代のヨーロッパの世相を考慮すれば肯ける画かもしれない。むしろ必然的な条件かもしれない。
恋人たちが夢想するフレームに入った青空に浮かんだ雲の近似・規格であるフレームなどを、微かな洗脳の傾向と捉えるのは行き過ぎかもしれないが、そういう予兆を孕んでいないとは言えないのではないか。
マグリットの告発である。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
さびしい反照の偏光を截れ
いま日を横ぎる黒雲は
☆半(二つに分けた一方)の章(文章)は返(元へ戻る)講(話)であり、再び果(結末)の往(人が死ぬ/そののち)を告げる運(めぐりあわせ)がある。
あなたひとりでわたしたちの幸福をぶちこわしてしまったのよ。イェレミーアスがjy主として働いているあいだでもわたしをkどわかすような真似をしただろうと、お考えになっていらっしゃるの。もしそうだとしたら、あなたは、この土地の規則をまったく見そこなっていらっしゃるのよ。
☆あなたはわたし達の幸福を妨げている。イェレミーアスが働いているあいだに、わたし(フリーダ=平和)を運び去ってしまったのではありませんか。
その時、あなたは当地の人の組織を全く見誤っていたのよ。