報告
さつき火事だとさわぎだしましたのは虹でございました
もう一時間もつづいてりんと張って居ります
☆法(神仏の教え)を告げる。
過(あやまち/科とが)を除(取り除く)考えが逸(隠れている)。
字で換(入れ替え)、懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)意(気持ち)である。
よろよろ、やっとの態で歩いているわたし…。それでもメンバーと一緒だと(自分も歩けるのではないか)と錯覚し付いていく。
金沢文庫駅から称名寺~長浜公園~並木幼稚園(岡本太郎の絵がある)~富岡八幡公園~京急富岡駅まで。
帰路についたら19200歩の道程。
膝関節痛のO脚。腰も痛い、肩も張る、眼も…いいとこなしのわが身体に鞭打つ「歩こう会」に感謝・感謝、心から有難く思っています。
『ことばの用法』
背景は再度明度の低いグリーン(上半分)と煉瓦(下半分)であり、不定形な白い部分には canon corps de femme arbre という文字が各所に描かれている。
確かに文字(言葉)である。
用法とあるが、むしろ意味を霧消している。
canon(規範・基準・法令)、corps de femme(女・隊)、arbre(樹木)、この三つの言葉に関連はなくただ記されているのみである。それぞれイメージはできるかもしれないがそれ以上でも以下でもなく、全体的には不可解な印象しかない。
レンガは人智をグリーンは自然を暗示していると思われるが、そこに浮上した単語は単語であるままでしかない。
しいて言えば、canonには人を拘束・是正するような強制力があるが、直接的な響き(影響力)は認められない。
corps de femme は、女の体もしくは女の兵隊(?)というような曖昧なイメージであり、arbre(木)に結びつくとは思えない。
要するに『ことばの用法』とは関連・目的なくしては意味がなく、イメージは他の関係のない言葉によってむしろ打ち消されてしまう。用法は成立しないということかもしれない。
(写真は新国立美術館『マグリット』展/図録より)
往ったりきたりなんべんしたかわからない
(四列の茶いろな落葉松)
☆応える詞(言葉)を列(並べ)査(調べる)。
絡(筋道)の要(かなめ)は照(あまねく光が当たる=平等)である。
(あいかわらず彼らを甘く見ていると、自分でもおもうがね)、とにかく、そうしてぼくがほんの二、三時間ほど眼をはなし、あのイェレミーアスーよく見ると、さほど健康でもなく、若造にしてはかなり年をくっているがー
☆いつものように軽く見ていると、自分でも心配しているけれど・・・少ない時間(死期)しか残っていないから、あのイェレミーアスー正確に見ると丈夫でもなく初老の仲間という感じでー