続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『冬のスケッチ』89。

2015-04-20 06:44:42 | 宮沢賢治
  たまゆらにひのきゆらげば
  校長の広き肩はゞ
  茶沙羅をくすぼらし門を出づ。
  埃はかゝるガラス窓


☆荒(でたらめ)を懲(こらしめる)講(はなし)を兼ねている。
 詐(いつわり)等(など)の赦(罪や過ちを許す)を問い推しはかる。

『城』1943。

2015-04-20 06:24:34 | カフカ覚書
そして、どの手もだめになると、K夫妻という名前で彼に物乞いなさるでしょう。しかし、これがお内儀さんの結論なのですが、そうなってあなたがご自分の想像していらっしゃったことも、希望していらっしゃったことも、なにもかも思い違いであったといつかおわかりになるとき、そのときこそ、わたしの地獄がはじまるのです。


☆そして、救済は死ではなく、Kと反対の関係ということでで先祖との区切りを懇願したのです。しかし、そのとき言葉は結論を見ることになるでしょう。言葉の仮定したハロー(死の入口)についても、またクラム(氏族)のことやなど何もかもが分かれば、そのときこそ泣くような地獄が始まるでしょう。

判断の基準。

2015-04-19 06:19:41 | 日常
 深沢七郎の「重い石が浮き、軽い葉が沈む、即ち不条理ということを書く」という風なことを読んで、(ああ、世の中というものはそういうものなのだ)と肯いた。

 勧善懲悪なんていうのはドラマの世界、現実は「悪いやつほどよく笑う」これこそ真実かもしれないと静かに胸に畳んだ。
 松本清張の「霧の旗」などの気の毒なほどの復讐劇、やられたらやり返すにも度を超している(だからこそ味わう快感)。


 この年になると、他人の人生がまるで物語のように見えてくる。因果応報、点と線を結び顛末を考えると幸不幸の落差は当然の結末とも、神さまの手違いとも思える。
 しかし、自分の手の届かない想定外(災害など)は因果応報などでは絶対に納得がいかない。

 逝去した人の前で愛を訴えても通じることはなく、嘆きは身をやつしてしまう。重篤の人の前で過去の遺恨を募らせても何も始まらない、むしろそのことで天誅が下らないとも限らない。思いは見えないが、烈しく交錯しながら浮遊している。人はこの混濁の空気の中で生きているから、時に息苦しいのはやむを得ないのかもしれない。


 カフカは「正しいと思うことだけをせよ」と言っている。どんな境遇に堕ちても、正義の尺度で進展を図るかぎり、それほど道を誤ることはないのではないか。とっさの判断を常に正義の天秤にかける意志を持つこと。
 優柔不断、強い方になびく傾向、意志薄弱なわたしには少し難しい課題である。

 才能なしの凡人であることを自覚しているけれど、せめて正しい人でありたいという願いを軽く捨ててしまわぬようにしたい。

『冬のスケッチ』88。

2015-04-19 06:13:26 | 宮沢賢治
  つめたくひるげを終へ
  ひとびとのこゝろそぐわず
  西の黒くも、しろびかり
  暖炉は石墨みの粉まぶれ


☆修(ととのえる)と、再び告げる談(はなし)が露(あらわれる)。
 析(分けることで事実が明らかになる)の目(ねらい)が粉(入り混じっている)。

『城』1942。

2015-04-19 05:47:20 | カフカ覚書
それでクラムが平気な様子をしていたら、あなたは、彼の冷淡さをやっつけようとなさるでしょう。つまり、ご自分のつまらなさをわざと見せつけて、こんなつまらぬ男に愛人をとられたんだという事実によって彼に赤恥をかかせるとか、でなければ、クラムについてのわたしの愛の告白(わたしは、実際そう言う告白をしましたもの)を彼に伝えて、わたしをもう一度迎えてやってくれるように彼に頼むとかなさるでしょう。もちろん望みの価格を彼に支払わせてね。


☆あなたは喜劇を通して、あなたの小舟を前に進めることを恥じるでしょうか。クラム(氏族)は、人としてのわたし(平和)の告白を真に理解していることを伝え、わたし(平和)を辛くても再び迎えるかもしれない。もちろん称賛は確かに返上すべきです。

そういう時代。

2015-04-18 06:41:07 | 日常
 写真も犯罪になりうる・・・そういう時代である。
 かつて写真は貴重なものであったし、記録として大切なものだった。けれど昨今では、誰でも簡単に何時でも撮ることのできる便利で安価なものとして溢れかえっている。

 その自由さによって事件が起きたり、防犯カメラなどでは事件を早期解決に導いたりしている。

 猥雑な写真をネットに載せたりする事件が後を絶たない。人権問題も甚だしい、許されざる横暴は犯罪であると同時に品位を欠く堕落である。

 少し前、サークル仲間のA氏が台車に乗った園児たちがあまりに可愛いのでカメラを向けた途端、保育士が駆け寄ってきて「やめて下さい」と、阻まれたという。
「孫を撮ろうとして叱責を受け、『わたしの孫です』と弁明した人もいるらしいから」とA氏。
 若いお母さんであるBさんも言った。
「この間なんか、『小学校の前で、生徒の写真を撮っている女の人がいます。気をつけましょう』って警告メールが廻ったのよ」


 そういう時代なんだ・・・。オジサンが女の子なんか撮っていると怪しまれるけど、オバサンは大丈夫だと思っていたけど(そうなんだ)他人にカメラを向けるってそういうことなのか・・・と激震(個人的感想)が走った。(いけないのね、許可なく他人にカメラを受けては・・・)

 そういう時代ということではなくて、基本的にそういうことは失礼だったんだと初めて認識。礼儀知らずでずぼらなわたし、社会のルールをしっかり把握しなくては!

『城』1941。

2015-04-18 06:07:03 | カフカ覚書
おまけに、狂言を演じてのけるつもりまでしていらっしゃる。あなたは、それが得になるとなれば、わたしを愛していると、こころにもないことでも平気でおっしゃることでしょう。


☆茶番を引き起こすことまでしている。あなたはそれが都合がよいとなれば、わたしが無関心でもそうするでしょう。

金山康喜考。

2015-04-17 06:47:36 | 美術ノート
 ものを見るということは、光があって初めて見えるのである。その光を拒否する傾向がある。陰影はむしろ意識的に、極力避けて描いていない。窓らしきを描いているけれど、外光への意識は薄い。外部は精神的な認識の下の彩色(解釈)であり、連鎖の空間意識は排除されている。

 幾つも下がった電球や火の点いていないロウソクが暗示する寂寥感。
 空のコップや空のビン、食用になるものといえば牛乳瓶に飲みかけたミルクとレモンくらいで歪んだフライパンや鍋に食材はない。貧しさを強調するというのとは異なる、虚無感の空漠。求めることを望まず、与えることもしない。恋への未練は断ち切れないが、積極的な働きかけはない。相手の燃えさかる情熱を傍観しているばかりである。
 けれど、あのコーヒーミルの取っ手の先は下に湾曲していて力の入れようがない。空回りするばかりのコーヒーミル。しかし、一見、ポットを押し倒すような位置関係に見える。緊迫状態に見える微妙な空虚・・・読み取ることが困難なほどの静謐に隠れた混濁の空気感。全ては隠蔽されている、表現しながら真意を覆い隠すことによって否定と肯定が波のように繰り返される、つまり答えは見つからない。鑑賞者の断定を拒否する含み笑いが確かに存在している。にもかかわらず淋しく肯く彼の混在もある。


 一体この人は何なんだ、締め付けられるような孤独。なぜ?
 美しい画面から立ちのぼる妖気は溢れるほどなのに、なぜ、陽気さを欠く?

 作品を見つめながら、《なぜ?》が止まらない。

 作家も《なぜ?》を自身に問い続けていたのかもしれない。

『冬のスケッチ』86。

2015-04-17 06:37:43 | 宮沢賢治
  しろきそらを
  鳥二羽つかれてたゞよひしが
  やがてもろともに
  高ひのきの梢にとまれり
         *
  みつむれば
  栗駒山のつらなりの
  雪の中よりひかりわき
  しろびかり、又黄のひかりわき
  わがこゝろの中に影置けり。
         *
  じっとつめたく、松のあしのうごくをなが


☆帖(ノート)には、弐(二つ)が有(存在する)。
 講(はなし)の照(普く光があたる=平等)は律である。
 句(ことば)を散(ばらばらにし)接(つないでいる)。
 誅(罪を責め咎める)幽(死者の世界)の考えを注(書き記し)営(こしらえている)。
 質(問いただす)章(文章)である。