深沢七郎の「重い石が浮き、軽い葉が沈む、即ち不条理ということを書く」という風なことを読んで、(ああ、世の中というものはそういうものなのだ)と肯いた。
勧善懲悪なんていうのはドラマの世界、現実は「悪いやつほどよく笑う」これこそ真実かもしれないと静かに胸に畳んだ。
松本清張の「霧の旗」などの気の毒なほどの復讐劇、やられたらやり返すにも度を超している(だからこそ味わう快感)。
この年になると、他人の人生がまるで物語のように見えてくる。因果応報、点と線を結び顛末を考えると幸不幸の落差は当然の結末とも、神さまの手違いとも思える。
しかし、自分の手の届かない想定外(災害など)は因果応報などでは絶対に納得がいかない。
逝去した人の前で愛を訴えても通じることはなく、嘆きは身をやつしてしまう。重篤の人の前で過去の遺恨を募らせても何も始まらない、むしろそのことで天誅が下らないとも限らない。思いは見えないが、烈しく交錯しながら浮遊している。人はこの混濁の空気の中で生きているから、時に息苦しいのはやむを得ないのかもしれない。
カフカは「正しいと思うことだけをせよ」と言っている。どんな境遇に堕ちても、正義の尺度で進展を図るかぎり、それほど道を誤ることはないのではないか。とっさの判断を常に正義の天秤にかける意志を持つこと。
優柔不断、強い方になびく傾向、意志薄弱なわたしには少し難しい課題である。
才能なしの凡人であることを自覚しているけれど、せめて正しい人でありたいという願いを軽く捨ててしまわぬようにしたい。