大浦天主堂:長崎
江嵜企画代表・Ken
博多で講演する機会があり、友人のTさんが前日、長崎まで案内してくれた。長崎は高校の修学旅行以来だから52年ぶりであった。
Tさんのマイカーで福岡市内を朝9時半に出て途中休憩を入れてお昼前に着いた。限られた時間内に何を見るか。グラバー園と大浦天主堂の二つを選んだ。
グラバー園は幕末から明治にかけて外国人の居留地として利用され、日本最古の洋館・旧グラバー邸は見ごたえがあった。
グラバー園に向かう途中通過した大浦天主堂に立ち寄り堂内を拝観、いつものようにスケッチした。
堂内に案内の放送が静かに流れていた。1863(文久3)年、パリ外国宣教会フューレ神父が来日、同年12月、熊本県天草出身の棟梁、小山秀と契約、天主堂建立に着手した。
正式の名前は日本26殉教者天主堂と呼ぶが、日本では地名をつけて呼ぶ習慣があるので通称大浦天主堂と言う。
1945年8月9日、原爆投下の際、屋根、正面大門扉、ステンドグラスその他甚大な被害を受けたが、1952年、5ヶ年かけた工事が完成したと説明にあった。戦争とはいえアメリカがプルト二ウム製の原爆をテストするために投下したとも言われており、怒りを覚える。しかし、原爆の爪あとは堂内にも庭園にも一切覗えなかった。
天主堂は1933年に文部省により国宝に指定され、1953年、文化財保護委員会により再指定されたという。
中央大祭壇のステンドグラスは12枚1組、幅1.5メートル、高さ3メートルある。最初のステンドグラスは原爆投下の際、爆風で大破、現在のものはパリのロジェ商会に注文したものであると説明にあった。
内陣右側上部に飾られた300号の油絵には日本26聖殉教者の生々しい殉教の場面が描かれていた。
「出島」(和蘭商館跡)の横を通り抜け、中華街で長崎ちゃんぽんを賞味した後帰路についた。(了)