チューリップ
24日(金)昼過ぎに例の更地パトロールに出かけた。先週スノウドロップと黄スイセンを描いた。次はチユウリップの出番である。例年球根を3段階に時間をずらせて植えると気持ち長く楽しめる。チューリップの見ごろは1週間ともたないからだ。
第一弾は1週間前に開花していた。今回2弾,3弾目の開花に間に合った。手前にスノウドロップと黄スイセンを入れて仕上げた。
スケッチのあと草取りと溝掃除に移る。この日は大阪で午後3時に所用があった。遅くとも午後2時には最寄り駅から乗車する必要があった。掃除を終えていざ帰ろうと腰を上げた時に通りがかりのさるご婦人から「チューリップがきれいに咲きましたね」と声がかかった。「お声をかけていただきありがとうございます。」と定番の挨拶をした。
「私、チュ―リップが大好きなんですよ。友だちはすぐ花が落ちるからチューリップは嫌いと言うんでうよ。」といつもの花談義がはじまった。
この日は時間に余裕がないので「お近くにお住まいですか」と軽く相槌を打ったら「浜の近くに住んでいます。2時にこの先にある整形医院に予約があり通りました。子供頃は呉に居ました。」と話が進んだ。
「あの軍港の呉ですね。原爆の時は大変だったでしょうね。」と言葉をつないだ。「原爆の時は疎開していて被害を受けなったのですがあと枕崎台風に遭いました。小学校4年生の時でした。土石流と一緒に姉と流されました。木にこうして腰が挟まれたまま流されました。木に挟まれたので助かりました。自宅の海側に13人住んでおられた大きな家がありました。11人が家ごと流され亡くなられました。」ととんでもない話に発展した。
枕崎台風は名前だけは何故か子供心にも覚えている。九州南端にある枕崎である。まさか呉が枕崎台風で未曽有の大災害に見舞われたことがご婦人から聞いてはじめて知った。
「ご予約が2時でしたね。お急ぎください。戦争が終わった時奥様は小学4年生。小生は1年生。3つ違いのお姉さんですね。お元気で。」と言葉をかけ握手して別れた。ご婦人は「またお目にかかれたらいいすね。」と話した。十分話足りなかったので思わずそんな言葉が出たのだろう。
帰宅後、ヤフーのブログで枕崎台風を調べた。1945年9月17日、枕崎に上陸した台風は日本列島を横断、広島市呉地区に再上陸。呉だけで死者1,154人(広島市全体で死者2,000人)を出した。呉は軍港のため既に再々米軍の空爆を受けていた。そのため先のご婦人も先刻疎開。そのため戦火は逃れた。
ところがである。1945年8月6日、呉ではなく広島市に原爆が投下された。8日に長崎にも原爆が投下され、8月15日、戦争は終わった。原爆の後1け月で混乱止まぬ呉を枕崎台風が襲った。軍港には適していた呉は海と山が迫ったすり鉢のような地形である。しかも花崗岩。豪雨で山肌は崩壊。土石流が家、人全てを飲み込み海に流したとあった。
花を描いているといつも元気をもらえる。この日の様な思いがけないエピソードも聞くことが出来る。命あってのものだねという言葉がある。健康に留意して残された後わずかの人生を楽しく過ごすことが出来れば幸いである。(了)