思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「民主主義」を思想として深め広げるのが「公共哲学」運動のはず。

2008-01-04 | 恋知(哲学)
民主主義とは、特定の理念を先行させない思想、いわば理念なき理念です。それゆえに、個人が持つ様々に異なる考え方や宗教を共存させることが可能です。
わたしが考える【公共哲学】とは、民主主義をそのような思想として深め・広げる営みです。何をどのように考え・行えば、民主主義をより十全に機能させられるか?に取り組むのが公共哲学の役目でしょう。

例を上げますと、エゴイズムを越えるために特定理念(「他者の優先」「年配者への尊敬」・・・)を持ち出すのは、哲学(公共哲学)としては失格なのです。道徳律を提示し、それに従うべきだ、といったのでは理念主義にしかなりません。例えどんなに進歩的と思われるような考え方でも、特定思想や宗教的信念から発する「理念」を社会の全成員に要請するのは民主主義とは相容れず、哲学にはなりません。

もし、ほんとうに哲学として公共を語る(公共哲学する)のならば、他者の尊重という理念にしても、赤裸々な生の実情につき、そこから段階を踏んで「私」の殻を破り、自分の生を公共世界へ伸ばしていくという「自然なエロースの広がり」として考え・語らなければいけないはずです。そういう順番で考えないと、人は内的につながることができず、【政治的人間】(損得計算や戦略・戦術で生きる人)に陥ってしまいます。そうなると、「公共哲学」からは公共性が消え、民主主義の徹底という役目も果たすことができません。
政治主義になれば、哲学は死にます。そうではなく、わたしは恋知(哲学)的な人間(知恵を求め、美を愛し、音楽・詩を好み、恋に生きるエロースの人)として生きたいと思います。政治から政治の臭みが発生する元を断ち、「直接民主的な市民自治」を可能にするのは、豊かで自由な人間性のみでしょう。

互いの自由を尊重し合うことで、互いのたのしみを広げ合うこと、互いの可能性を伸ばし合うことで、公共世界を発展させること、そのための創意工夫・努力・助け合いこそが民主主義社会における「政治」のはずです。

武田康弘
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