思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

コメント問答としての哲学ー荒井達夫と武田康弘

2008-01-07 | 恋知(哲学)
下のブログに対する荒井達夫さんとのコメント問答=哲学です。とてもよい対話になったと思いますので、記事にします。

荒井達夫 ] [2008/01/05 00:21] 「公共する」とは、徹底した思想良心の自由に基づく行為で、本質的に万人に対し開かれているものと言うべきです。ですから、特定思想や宗教的信念のために、他人に何らかの考えをするよう求める行為は「公共する」ことに真っ向から反することになります。また、そのために集団を作ることも、反公共的です。このようなことは、日々の具体的生活の中で「公共する」とは何かを考えれば、当然のことと思いますが、どうも学問の世界は違うようです。深刻な問題と考えていますが、いかがでしょう?――――――――――――――――――――――

[ タケセン ] [2008/01/05 11:20] 荒井さん、コメントありがとう。学問として「公共哲学」を行い、そこで研究者の見解を出すのは、学問の自由ですから全く問題ありませんが、それが具体的な現実問題に関わってくると、その良否・適否は、現実の場面で試されることになり、その思想にどれだけの普遍性があるか?が問われるわけです。それを決めるのは、ふつうの多くの人の常識・良識ですので、情報公開と自由対話が不可欠なものとして要請されます。それが民主制社会の大原則のはずです。――――――――――――――――――――――

[ 荒井達夫 ] [2008/01/05 19:28] 学問としての公共哲学も、現実具体の問題との関わりの中で、その存在意義や有用性が真正面から問われています。この傾向は、今後、ますます強くなるでしょう。民主制社会において「公共する」、「哲学する」とは何か、この一番大事な基本事項を原点に立ち返って、きちんと考える必要があるのではないかと思います。――――――――――――――――――――――

[ タケセン ] [2008/01/06 11:42] 荒井さん、人間の生き方や社会のありように関する思想は、それがもつ社会的な影響について「責任」がある、とわたしは考えています。まして、公共を掲げる思想であれば、なおのことでしょう。自分の言動に対する厳しい目=【良心】を欠けば、思想は死にます。【良心の自由】というもっとも人間的な営みは、人間性の深い肯定であり、それは、実存の深みから立ち上がる社会的存在としての「私」の価値を表現するもの、と言えるはずです。「日本国憲法第19条ー思想及び良心の自由」、には深い哲学的意味があります。――――――――――――――――――――――

[ 荒井達夫 ] [2008/01/06 14:32] 思想良心の自由は、自分が常に社会的存在であるという意識を持っていなければ、成り立たない。また、それは、最も人間的な営みであるために、人間性に対する深い肯定がなければ、成り立たない。さらに、人間性に対する深い肯定は、実存を深めることからしか得られない。これが憲法19条の哲学的土台であるということですね。公共哲学をはじめる第一歩であり、ふつうの多くの人の常識・良識では何ら違和感がありませんが、学問としての公共哲学に欠けているのは、この認識ではないかと思います。―――――――――――――――――――――――

[ タケセン ] [2008/01/06 21:30]荒井さん、その通りでしょう。己の実存を踏まえて【良心の自由の行使】として公共について思考し実践することは、学としての「公共哲学」には欠けていますが、それは致命傷になりかねません。その点については、『公共的良識人』紙の8月号でも力説したところです(6月14日の書簡ー「自己という中心から公共性は生まれる」)。最も注意しなければならないのは、順番です。実存が先=出発点であるという原理を曖昧にし、他者や社会を先立てると、途端に不毛な「理念主義」に陥ります。生の現実につく哲学的な思考ではなく、新術語や新理論をつくり、横へ横へと無用な拡大をするはめに陥ります。水面下をよく見ることで新たな世界をひらくという哲学の営みとは逆になります。この荒井さんとの「コメント問答=哲学」はとても有益で、気持ちがいいですね。

武田康弘
コメント
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