以下は、今日の「白樺ML」からその一部です。
高城です。
早苗が柏市議選に立候補するとき
市民の代表者という言葉は何かが違うと思い、どうしても使いたくありませんでした。
ですから立候補を勧めた人たちと相談して
「あなたの声、届けます→柏市へ。」というキャッチコピーを作りました。
当選後、タケセンに”市民の代行者”という話を聞き、
自分たちの想定していたものは「これだ!」と感じ、有難く使わせていただいています。
”市民の代行者”という言葉は、タケセンのオリジナルかもしれませんが、
その理念は普遍性を持ち、私たちも深く納得しているので
タケセンは著作権料も請求せずに(笑)使用させてくれているのだと思いますが…。
高城さん、みなさん、
【代行者】という30年以上前から使っているわたしの術語の出所は、
竹内芳郎氏の『国家と民主主義』(現代評論社・1975年刊)にあります。
以下に抜粋しますので、参考にして下さい。
この本は、「哲学研究会」の初期(1987年)にも一部を取り上げてやりました。
32~33ページ
「・・・もっと事の本質を考えてみても、ルソーの見解の方が理のあることがわかる。実際、かんがえてもみよう。たとえば私が友人に手紙を出す場合、私はその手紙を友人に届けることは郵便配達人に委ねることができるし、それどころか病気の場合、代筆を依頼することもできる。だが、手紙を出すか否か、どんな内容と文体の手紙を出すかは、私以外に決定者はなく、もしそれさえも他人に委ねるならば、もはや、私が友人に手紙を出したことにはなるまい。つまり、行為は他人に代行してもらうことはできても、意思決定は他人に代行してもらうわけにはゆかぬということは、自由な行為というものの本質必然性なのである。
このことを政治の領野に転位すれば、<行政>は他人に代行させることはできても、<立法>は他人に代行させるわけにはゆかぬ、ということになる。ところが代議制は、まさにこの不可能事をあたかも可能のごとく欺瞞するところに成立しているのである。のみならず、意思決定まで他人に委ねるとなると、本人がその行為の総体にすっかり興味を失うのは当然のなりゆきであって、その意味で、代議制と大衆の政治的無関心とは、本質的な関係があり、実はたがいに悪循環をしているわけである。
だからルソーは言うー「イギリスでは人民は自由だと思っているが、これは大まちがいだ。彼らが自由なのは議員選挙の期間だけであって、議員が選ばれるや否や、彼らはドレイになり、何ものでもなくなってしまう。」と。
それでは、ルソーは議会制に代って、何を主張していたのであろうか。それが<人民集会>における直接民主主義である。・・・主権を行使する人民は政党を通じてではなく、集会で自分だけの裸の意見を表明せねばならぬ。・・・徒党によってコミュニケーションが妨げられず、みんなが平等に十分な情報をあたえられたうえで審議が行われたるとき、人の意見というものはそう大きくは違わないものだ。また、無記名投票のようなものではなくて人民集会で意見を表明すべきだというのも、前者で表明されるものが集列化され惰性化された意見であるのに反して、後者で表明される意見は、まさに能動態としての人民の意志であり、かつ討論によって理性的に正邪の黒白をつけた上で決定されてゆく意見だからであろう。・・・」
という竹内芳郎氏の記述から、議員を、主権者の意思を代行する者=【代行者】と呼ぶことにしたわけです。【民主主義とは直接民主主義のことである、という理念を、理念次元に置かない限り、議会制民主主義も成立しない】というのが武田の考えです。
武田康弘
高城です。
早苗が柏市議選に立候補するとき
市民の代表者という言葉は何かが違うと思い、どうしても使いたくありませんでした。
ですから立候補を勧めた人たちと相談して
「あなたの声、届けます→柏市へ。」というキャッチコピーを作りました。
当選後、タケセンに”市民の代行者”という話を聞き、
自分たちの想定していたものは「これだ!」と感じ、有難く使わせていただいています。
”市民の代行者”という言葉は、タケセンのオリジナルかもしれませんが、
その理念は普遍性を持ち、私たちも深く納得しているので
タケセンは著作権料も請求せずに(笑)使用させてくれているのだと思いますが…。
高城さん、みなさん、
【代行者】という30年以上前から使っているわたしの術語の出所は、
竹内芳郎氏の『国家と民主主義』(現代評論社・1975年刊)にあります。
以下に抜粋しますので、参考にして下さい。
この本は、「哲学研究会」の初期(1987年)にも一部を取り上げてやりました。
32~33ページ
「・・・もっと事の本質を考えてみても、ルソーの見解の方が理のあることがわかる。実際、かんがえてもみよう。たとえば私が友人に手紙を出す場合、私はその手紙を友人に届けることは郵便配達人に委ねることができるし、それどころか病気の場合、代筆を依頼することもできる。だが、手紙を出すか否か、どんな内容と文体の手紙を出すかは、私以外に決定者はなく、もしそれさえも他人に委ねるならば、もはや、私が友人に手紙を出したことにはなるまい。つまり、行為は他人に代行してもらうことはできても、意思決定は他人に代行してもらうわけにはゆかぬということは、自由な行為というものの本質必然性なのである。
このことを政治の領野に転位すれば、<行政>は他人に代行させることはできても、<立法>は他人に代行させるわけにはゆかぬ、ということになる。ところが代議制は、まさにこの不可能事をあたかも可能のごとく欺瞞するところに成立しているのである。のみならず、意思決定まで他人に委ねるとなると、本人がその行為の総体にすっかり興味を失うのは当然のなりゆきであって、その意味で、代議制と大衆の政治的無関心とは、本質的な関係があり、実はたがいに悪循環をしているわけである。
だからルソーは言うー「イギリスでは人民は自由だと思っているが、これは大まちがいだ。彼らが自由なのは議員選挙の期間だけであって、議員が選ばれるや否や、彼らはドレイになり、何ものでもなくなってしまう。」と。
それでは、ルソーは議会制に代って、何を主張していたのであろうか。それが<人民集会>における直接民主主義である。・・・主権を行使する人民は政党を通じてではなく、集会で自分だけの裸の意見を表明せねばならぬ。・・・徒党によってコミュニケーションが妨げられず、みんなが平等に十分な情報をあたえられたうえで審議が行われたるとき、人の意見というものはそう大きくは違わないものだ。また、無記名投票のようなものではなくて人民集会で意見を表明すべきだというのも、前者で表明されるものが集列化され惰性化された意見であるのに反して、後者で表明される意見は、まさに能動態としての人民の意志であり、かつ討論によって理性的に正邪の黒白をつけた上で決定されてゆく意見だからであろう。・・・」
という竹内芳郎氏の記述から、議員を、主権者の意思を代行する者=【代行者】と呼ぶことにしたわけです。【民主主義とは直接民主主義のことである、という理念を、理念次元に置かない限り、議会制民主主義も成立しない】というのが武田の考えです。
武田康弘