思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「一般意思」だけなら「公共人間」に陥る。

2008-05-28 | 恋知(哲学)
人間は、どんなに公共化されても「私」は「私」であり続けるから人間なのです。

いわゆる近代社会を成立させる原理である「一般意思」に吸収されてしまわないから人間=「私」なのです。物の存在とは存在仕方が反対で、私の生きる意味・価値は、「個別意思」をもつ独自の実存であるところにしか生じません。

「一般意思」=公論をつくるための自由対話の営みは、人間を他なるものの中で鍛え、よき社会人として成長するためにはどうしても必要なことですが、そこに「私」が生きる意味を求め、重ねることはできません。それでは実存としての人間ではなく、単なる公共人間に過ぎなくなります。

ソクラテス・プラトンによると、人間の最も高い魂は、知恵を求め、美を愛し、音楽・詩を好み、恋に生きるエロースの人に宿るとされ、それが恋知者(哲学者)の生だと言われます。

社会的・政治的なレベルの活動は、人が市民として共同社会をつくる上で極めて重要ですが、優れた「一般意思」の形成は、人がよく生きるための条件であり、それ自体は人が生きる意味・価値にはなりません。「一般意思」は、「普遍意思」とは次元が異なる世界です。

「一般意思」は、各自の主観から出発しつつ、みなのためを考え・求める意思ですが、それに対して普遍性という次元をめがける意思は、私の「個別意思」を、私の生の現場を掘ることでつくられるのです。優れた芸術家の意識は、みなのため、をめがけるのではなく、己の内部の目に耳に・・心に徹底して従うのです。「一般的」とは逆の発想だというのは、ベートーヴェンやセザンヌや・・・を見れば分かります。

芸術家でなくても誰でも心の一番大事な世界は、私の固有性の領域であり、社会化は不可能です。もちろん固有性のよさを社会に向けて示すことはできますが、「一般化」を先立てれば、固有性のよさは死んでしまいます。「普遍意思」とは「個別意思」の底を破るところから生じる世界であり、「一般意思」をいくら積み重ねても「普遍意思」にはなりません。両者は次元の異なる世界であることを知らないと、混乱をきたし、危険です。

人間をすべて社会化・公共化してしまえばどうなるか?昆虫になります。


武田康弘
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