思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

公共性=一般意思とは、「私」がつくる一つの次元

2008-05-14 | 社会思想
以下は、白樺MLです(一部カット)。


武田です。

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それにしても【公民連携】!?というような逆立ちした発想・言い方がまかり通るようでは困ります。「官」を「公」と呼び、しかも「公」が先!?という思想の下での「公共」など真っ平ごめんです。インチキ公共性の思想を哲学的土台からきちんと始末しなければ、すべては砂上の楼閣です。

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次に、

わたしが、少し前に、「一般意思」、「普遍意思」、「絶対意思」、とメールに書いたところ、古林さんから解説を依頼されましたので、今日の記念すべき!!『愉しい哲学の会』で、そのことをお話しました。以下に、「一般意思と普遍意思」についてまとめておきましたので、ご意見、ご質問、異論、反論、批判をよろしくお願いします。


☆公共性=一般意思とは、「私」がつくる一つの次元。


社会生活上、こう考えるのがよいー妥当だ、という意思=「一般意思」は、公共的・社会的・政治的な次元においては、絶対的な基準となるものです。

しかし、それは「私」が生きる固有の価値ではないので、そこに人生の意味充実を求めることはできません。「私」と「一般意思」が同じになれば、そこでは「私」が生きる固有の生の意味・価値は消え、私はただの事実としての人=「事実人」=「一般人」になり下がってしまいます。

「私」の世界の中にある一つの次元として「公共的人間」は成立しているわけですが、人間がイコール「公共的人間」になってしまえば、それは固有の生の価値をもった人間ではなくなるわけです。この簡明な存在論的事実を、いわゆる「政治的人間」は自覚できないために、議員は偉い!?というような愚かな想念とりつかれるようです。市民の意思の代行者である議員が「先生」と呼ばれて怪しまないというのは、笑止でしかありませんが、なぜ、こんな当たり前の話が分からない人が多いのか?ほんとうに困ったものです。

私が生きる価値・意味は、私の情緒、私の想い、私の趣味、私の身体、・・・にあります。内的な私の固有のよさ・美しさにあるのです。それは、「個別意思」を普遍化(決して一般化ではありません)させる「私」の努力・営みであり、そこにこそ人生の意味充実のエロースがあるわけです。「一般意思」はこの「普遍意思」の世界を発展させるための基礎条件なのです。

もちろん、社会的・公共的な条件をできるだけよいものにする営為=「一般意思」の形成とそれを実現するための努力には大きな価値がありますが、どこまでもそれは手段です。手段に手段としての価値以上の意味を置けば、「個別意思」の高度化・普遍化という「私」が「私」として生きるエロースは消え、「普遍意思」は形成されにくくなります。「一般意思」しかない、というのでは、単なる「事実人」にすぎなくなりますから、くれぐれもご注意!下さい。


武田康弘
コメント
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